アンダー・プレッシャー(試し読み)第一章/1

 第一章 第一会議室

 鳥海茜(とりうみ あかね)が、分析室、事業所のパート全員の時間外手当を入力し終わり、まとめた出欠勤カードでトントンと机を叩いた時、香川節子(かがわ せつこ)がラップトップの向こうから「お茶入れましょうか」と声を掛けて来た。

 腕時計を見ると十五時半だ。

「あ、私がやります」

 勤続年数二十五年以上の大御所が席を立ちかけているのを茜が慌てて手で制した時、どこか懐かしい声音が自分を呼ぶのを聞いた。

「あーかね。いやー、やっぱり外歩き回ると暑いねえ。冷房効いたエントランスが天国に思えたよ」

「あれ、栄子。どうしたの?」

 人の背丈ほどのパーティションで区切られた接客ブースの角から同期の西条栄子(さいじょう えいこ)が姿を現し、持っていた手提げの紙袋を茜の隣の空席に置いた。

「T理科大に分析データ出しに行って来たの。その帰りに人事課の皆様にご挨拶に。お疲れさまでーす、いつもお給料ありがとうございます。入力間違えて多めに入れてくれてもいいですからね」

 おどけた顔で会釈しながら人事課のデスクを見渡し、栄子は椅子を引き出して座った。

「いやいや、香川さんと課長のダブルチェック厳しいから。ていうか、早く栄子の〝育児扶養手当〟に数字を打ち込みたいわ」

「ぶはー! 会社から結婚祝い金もまだもらってないのに!」

「笑っていられるのも今のうちよ。ていうか、わざわざ本社からこっちまで出て来て。データなんてメールでポン、で良くない?」

 茜の勤務する都内のビルの2フロアは借り上げで、本社は二県離れたI県にあった。栄子の実家は本社に近く、また研究者志願であった理系の彼女は本社の研究室勤務だった。

「ずいぶんね。最初の言葉、熨斗(のし)を付けて返すわ。そう、データね。普段ならそうするんだけど、一応それを資料とした新製品の営業兼ねて。だから営業部の大林さんと一緒だったよん。あの人と歩くと街歩く女子の視線吸引しまくる、しまくる。歩くバキュームだよ。って、私は個人的には同じ営業でも上尾さんのほうがよかったんだけどねえ」

「西条さん、お疲れさま。なんだか見ないうちにすっかりしっかりして。お茶飲むでしょ? 今入れるけど。あ、それともアイスコーヒーの方がいい?」

 栄子の会話の勢いが途切れた所で、香川が控えめに割り込んできた。

「あ、お茶がいいです。ありがとうございます。コーヒーは外で大林さんにご馳走になっちゃったから。そうだ、お菓子買って来たんですよ。皆さんでどうぞ」

 栄子の差し出した紙袋を、丁寧にお辞儀をしながら受け取った香川が給湯室に行ってしまうと、栄子はショルダーバッグから掌より少し大きめの包みを二つ取り出して茜のデスクに置いた。

「遅くなったけど、誕生日プレゼント。二十五歳、おめでとうございます」

「わあ、ありがとう。そんなの、いいのにー」

 茜が嬉々として開けようとするのを栄子は慌てて押さえる。研究室で働く、爪が切りそろえられたマニュキアの塗られていない指だ。

「人がいない所でね」

「ん? なになに? やばいの?」

 目をきときとと光らせて食いついてくる茜の額を栄子は指先で軽く小突き、「お楽しみ」とにやりと歯を見せた。

「あーあ、せめて顔を拝もうと思ったのに、上尾先輩、外なんだって」

 溜め息をつく栄子に、茜は訝しげに眉を寄せる。

「そんなにいいかあ? まあ、かっこいい部類だけどさ。眼鏡男子の代表?」

「ちょ、『部類』いらない! 訂正しろ! そして『眼鏡男子』違う! 『眼鏡王子』!! 近くにいるとこうもありがたみが無いもんかねえ……

「いや、フロア違うし会わないし」

「はあ、だめだ。女子度メーター底辺ぶっちぎりの茜じゃ上尾先輩のよさはわからんね。ていうか、入社当時、先輩に手取り足取り仕事教えてもらった幸せ者がァ!」

「何? 上尾君の話?」

 香川が机の上に栄子の菓子――ダッコワーズ――と湯のみを二つ置きながら口を挟む。

「そうです! カッコいいですよねえ。あ、いや、このフロアの皆さんも素敵なんですけど!」

 やっと自分の声が、広くフロア中に響いているのを悟った栄子は、誰も頼んでいないフォローを入れた。

「そうねえ、私はおばさんだからカッコいいって言うのはわからないけど、どちらかというと可愛いわね。仕事も速いし……。でも、ちょっとつかみ所が無いような感じだったわね。まあ、今の若い子ってみんなそうなのかしら」

 香川が小首をかしげると、おかっぱ――ボブ、というよりまさに〝おかっぱ〟――の髪がさらりと音を立てたように思った。五十を既に越えているかいないか微妙な歳でありながら、彼女の髪は艶があり、細かい皺はあるものの、肌は抜けるように白い。

『香川さんは絶対にまだ一度も男を知らないと思うんだよなあ』

 以前、支店長会議の後、茜と企画部の女子社員が連れて行かれた酒の席で酔った誰かが言っていのが記憶に蘇る。

 そういわれてみると、ややふくよかな体は無垢に見えて、熟した色気を仄かに漂わせているようにも思えた。

「そんなあ! 香川さんだってまだまだお若いですよ! 全然私たちの会話について来てるじゃないですか。ね、茜」

「そうですよー」

 栄子の声に我に返り、調子を合わせながら、今度は上尾の顔を思い浮かべてみる。

 茜が入社した当時、上尾は同じ人事課で机を並べていた。

 彼が歌舞伎役者なら女形確実だろう秀麗な顔。ストレートの長めの前髪をワックスで後ろに流していたそのシャープな横顔は、香川も言う通り、普段から何を考えているのか全く表情が現れず、眼鏡の奥の目は涼しげな――というか、人を寄せ付けない――雰囲気もあって茜は隣にいても、かなりの距離を感じたものだ。

 それでも新人の教育係という、業務上の名目においてはとても優秀な指導者だった。

 事務的でも、上尾と言葉を交わしたのはその数ヶ月間だけである。そして茜がやっと電話対応に慣れ始めた頃、彼は営業部に異動になった。

 * *

「お疲れさまでした」

「ああ、助かったよ。鳥海さんのおかげで私の方も終わりそうだ」

 課長の中西はラップトップから顔を上げ目を細めた。

「そんな、当然ですよ。ではお先に失礼します」

「お疲れさん」

 栄子の訪問で大目に見てもらっていた長めの休憩時間分を取り戻すのと、中西の溜まっていた交通費精算を処理するのに二時間ほどの残業。

 給料日後の金曜だからか、フロアに残っていた他の社員も茜の声に時計を見、ラップトップの蓋を閉じて腰を上げ始めた。

 茜はデパートの、駅への連絡通路を抜け、途中にある輸入雑貨屋を覗いた後、本屋に立ち寄った。雑誌を幾つか立ち読みし、ラブロマンスの新刊を一冊選んでレジの列に並ぶ。自分の番に近づくとバッグに手を入れ、財布を探る。掌を返して探った。荷物は少ない方だが、いつまでたっても指は馴染んだ財布の肌に触れない。

「あ」

 そうだ、今日手芸キットのお金払って財布、引き出しに入れっ放しだ。ああ、少し足りない女子力、安易に稼ごうとしてこの始末。そして買ったキットはロッカーに置いたまま。女として終わってる。内心で苦笑しながら腕時計を見れば、寄り道は意外と時間を食っていた。

 まだ会社に誰か残っているだろうか。もう戸締まりをしてしまったか。それなら守衛さんの所に行かないと。

 小走りで会社に戻り、勤務フロアでエレベーターの扉が開くと、乗ろうとした中西とばったり顔を合わせた。

「うわ、ビックリしたな。どうしたの、鳥海さん」

 〝開〟ボタンを押したまま、茜は事情を一言で話した。

「じゃあ、タイミングよかった。私が最後だったから。はい、鍵。ちゃんと戸締まりして下に持って行ってくれよ」

「はい。お疲れさまでした」

 中西と入れ違いにエレベーターから飛び降りるようにして、ぺこりとお辞儀した茜を上司は苦笑で見送った。

 蛍光灯のスイッチを入れると、海原の諸島のようにデスクが浮かび上がる。

「あ、やっぱりあった。よかった、よかった」

 財布をバッグに仕舞う。ふと何かに呼び止められたような気がし、一番下の引き出しに視線が落ちた。

(そういえば、栄子からのプレゼント入れっ放しだった)

 一度肩に掛けたバッグをデスクに置き、引き出しから二つの箱を取る。ペーパーナイフでテープを剥がし、包装を広げる。

「うわ、嬉しい」

 出て来たのはレトロな形の香水瓶で、茜が前から欲しがっていたトワレだった。

「やっぱり持つべきは友達じゃのう。それに二つもプレゼントなんて、よっぽどお給料いいのかしら、栄子さん。なんちてー」

 ほくほくと二つ目の包みを開けると、箱から出て来たのは、パールピンクのペンのような物だった。しかし、ペンにしては太すぎる。両端には丸みがある。そして、ペンなら外れるはずの蓋がない。小さなボタンがあるということは、ペンライトの類いか。

「なんだ?」

 縦にし、横にしてみても見当がつかず、箱の中を見ると説明書があった。茜は商品名に目を走らせると、ぷらぷらと片手で振っていたそれを思わず机上に落した。

 げ、バイブじゃーん。「スタイリッシュなラブグッズ」って……。どっから突っ込んでいいのやら……って、突っ込まれるのはあたしか? じゃなくて!

 バッグからスマホを搔き出し、栄子に電話する。コールは三回で相手を捕まえた。

「あはは、ごめーん。あたしそれ結婚式のビンゴ大会でもらったんだけど、実家暮らしでしょ。部屋にあっても困るもん。母親が掃除しに来て見つけて、間違ってスイッチ押すようなことあらば!」

 あははは、と再び朗らかな笑い声。

「だからって、人に回すかこんなもん! ていうか、自分の部屋くらい自分で掃除しろ!」

「未使用だから安心して」

「ったりまえでしょ! てか、使わん!」

「だから、それはおまけ。ちゃんともう一つはあんたが欲しがってた香水だったでしょ。まー、そんな道具使わなくてもいいように、早く彼氏が見つかるといいねっていう……可愛いプレッシャー? 応援アイテム的な? まあ、その香水についてはまた後日ゆっくり話すけどさ」

「『アイテム的な?』って! 聞くな! もう、わけわかんない! だが、香水はありがたく受け取っておく!」

 なにそれ、偉そうー、と間延びした語尾の終わりまで聞かず、茜は鼻息荒く通信をぶち切った。

「ああ、まだいたの」

 喉に引っかかるような声が聞こえ、そちらを向くと、フロアの入り口に顔なじみの初老の守衛が立っていた。

「正面のガラス戸は開いてるけど、薄暗いし、覗いてみたんですけど。まだ残業ですか」

「あ、いえ。お財布取りにきただけなんで。すぐ出ます」

 スマホと香水をバッグに放り込み、一瞬の逡巡の後、〝応援アイテム〟を元の引き出しに突っ込んで消灯すると、入り口で待つ守衛に鍵を渡して施錠を頼んだ。

 ビルのエントランスを出て、茜は「あ」と小さく声を上げた。

 せっかく会社に戻ったのに、また刺繍キットを忘れたのを思い出したのだった。

 こりゃあ、女子力伸びないわ。でも……今ならまだギリで、デパ地下の総菜セールに間に合うよね……

 今日はもう「色気」より「食い気」に徹することに決める。とたんに軽くなった足で、駅に向かった。

 * *

 オフィスの壁時計を見れば午後八時半だ。

 給料日後の数日の間に残業が重なるのは珍しい。しかし、上司から頼まれれば断るという選択肢は、入社三年目の部下には無い。

 あとは仕上げた書類を必要部数コピーして綴じるだけでよかった。それでも意外と時間がかかってしまった。小腹が空いたので、茜は引き出しから、盆休み明けに他部署の社員が皆に配った銘菓を出し、お茶を入ると、それを食べながらスマホでオンラインノベルサイトをチェックした。

「あ。更新されてるー。嬉しい」

  そのサイトには大人のラブロマンス――かなり濃い性描写がちりばめられた――小説が投稿されている。無料で読めて、なかなかクオリティの高いそれに、茜は気に入りの作家を何人か発掘していた。そして、そのうちの一人の毎金曜日の更新を楽しみにしていたのだ。

 最新の更新記録を見つけ、いざそのページをタップしようとしたとき、接客ブースの向こうに頭が流れるようにこちらへ来るのが見え、すぐに姿が現れた。茜は咄嗟に掌でスマホを覆った。

 三年先輩である、営業部の大林だった。彼は茜を見つけるとぎょっとしたように立ち尽くした。

 ギリシャの彫刻のよう、と言っても過言ではない、日本人離れの顔の中心に一瞬眉が寄ったが、それは茜が気が付く前に消えた。

「あ……、鳥海さん、まだいたんだ……

 我が社のイケメンズの一人、大林賢郭(おおばやし けんかく)。もう一人はもちろん、栄子お墨付きの上尾だ。

「静かだし、電気付けっ放しだと思って見に来たんだけど。一人で残業? お疲れさま」

 親会社の実業団バスケチームで活躍している、スポーツマンの爽快な笑みがさっと顔に広がる。 茜は言われて初めて、大林と二人きりという状況に気がつき、妙に落ち着きを失った。

「お疲れさまです。ええ、でもあとコピーして終わりです。ちょっとお腹が減って休憩してたんですけど。大林さんもまだ残っていたんですか?」

「あ、うん……。でも、終わったから、三田でも誘って飲みに行こうと思ったんだけど……

「経理は皆さん、もうとっくに帰りましたよ」

「そうだよね」

 茜の隣に立った大林は経理部の同期の名前を出し、まだ一つだけ残っていた北海道銘菓を指した。クッキーにホワイトチョコがサンドされたものだ。

 茜の視線はそれを摘まみ上げた大林の手を追った。無骨で男らしさを感じる手だ。

「これ、うまいよね」

「あ、甘いものお好きでしたら、どうぞ。私、実はもう二つ食べたので」

「いいの? じゃあ遠慮なく」

 白い歯を見せて大林は笑んだ。そして再び誰もいないフロアを見回して溜め息まじりに言う。

「ふん……しょうがないな。おれも大人しく帰るか。上は誰もいないから、戸締まりしておくよ。お菓子、ご馳走さま。鳥海さんからこれもらっただけでも下に来た介があった」

「そんな」

 茜は照れを隠すようにわざと事務的な口調で言葉を継いだ。

「じゃあ、戸締まりお願いします。お疲れさまでした」

 大林は手をひらりと振り、そそくさとフロアを出て行った。その張りのあるスーツの背中が完全に消えると、茜はほっと息をついた。

 ああ、眼福だった。普段は見ないからあれだけど、やっぱり見るとカッコいいよなあ。でも大林さんも、三田さんと飲みに行きたいなら昼間のうちに約束しておけばよかったのに。普通、週末にこんな時間まで残ってるなんて思うかな。急な誘いだって迷惑だろうし。っていうか、大林さん、週末なのに約束ないのかな。そういえば意外に彼女の噂って聞いたこと無いけど。まー、それ言ったらあたしもそうだけど。

広告

投稿者:

takamiyakashio

官能表現含む恋愛小説を創作しています。 王道も好きですが、やや斜めから切り込んだストーリーに日々挑戦中です。 「久保ちはろ」名義でも書くことがあります。