検事 久賀丞已 〈3on3〉

ガゴン!

リングに当たったボールが派手に跳ね返る。青Tシャツ男子が筋肉質の長い腕を伸ばし、すかさずオフェンスリバウンド。

始関晃穂《しせき あきほ》はキックアウトの素早いパスを受けると、迷わずステップスルーでインサイドをこじ開けた。ゴール前の踏み込み。

ステップの熱量が下肢の筋肉に秒速でぐっと流れ込み、凝縮する。何も聞こえない。見えるのは伸びて来るいっぱいに開いた手とゴールだけ。

同時に飛んだディフェンスをダブルクラッチでかわし――ボースハンドダンク。

ボールをゴールに叩き込んだ瞬間、ぞくぞくっと悪寒が四肢を駆け抜ける。

――飛べる。僕はまだ飛べる。

「ゴチになりまーす」

「スイートポテトドーナツやっぱうめえ! 期間限定と思うと余計うめえ!」

『ゲームの参加料に奢る』という始関の言葉に、汗だくの七人の少年たちは奇声で答えて公園前のコンビニまで疾走すると、ジュースや菓子パンを遠慮なくカゴ二つ分放り込んだ。

そのまま駐車場の片隅を陣取り、戦利品を広げている彼等の横で始関はミネラルウォーターを一気に半分ほど空にして一息吐く。

「そういえば、おでんってもう出てるのか。九月中旬とはいえ日中は暑いのにな。需要があるってことか」

「オッサン、知らないの? 最近は大抵のコンビニはおでん通年販売だぜ」

チームを組んだ青いランニングの少年が「おれ、バイトしてるから」と生意気に口の端を上げる。

「”オッサン”やめろ。始関だ」

「でもさあ、始関サンいきなり乱入してくるとか、やんちゃだよな。オッサンのくせに」

始関は仕事が早く終わると夜の街を愛車でドライブし、気が向いた場所でジョギングをするのが常で、今日は川沿いの団地脇を走っていた。小さな公園を通りがかると、一基のバスケットゴールの下で少年たちが3on3をしているのが目に入り、その場で足を止めた。

ボールがティン、ティンとアスファルトに反響する尖った音を聞いていると、勝手に身体が動いていた。パスをスティールし、気が付けばレイアップシュートが入っていた。

「オッサンやめろ、二度目。いや、仕事柄身体鍛えるようにしてるから。それでも学生時代みたいには何度も飛べないな」

「マジかよー。つうか、宙で止まってるよな。ダブルクラッチとか、超キレいいし。教えてよ。ていうか、仕事なにしてんの?」

「おまわりさん」

ええ、マジかよ、と今度は全員が声を揃えた。始関は首から下げた警察手帳をTシャツの襟から手繰り出し、彼等の疑いの眼差しに向けて見せた。

「うえー、ホントだ」

「ていうか、俺がこれ見ても本物かわかんねえ」

「補導してやろうか? といっても、無駄な仕事が増えるからしないけど。まだ十時前だしな……」

始関がスウェットの腕をまくって時計を見た時、ポケットで携帯電話が鳴った。

――うわー、ヤル気ねえ……。ていうか、おれたちもう大学生だしー。

――それって税金泥棒じゃね?

学生の野次から離れ、画面に光る名前を見た始関の顔に緊張が走る。部下の刑事の一人――篠塚雅季。事件か? いや、彼女は今日非番のはず。

「始関だ。どうした?」

短い会話のあいだに始関の緊張は解けたが、相手の要領を得ない物言いにわだかまりが渦巻く。取り敢えず、部下の要求を承諾し、通話を終える。

「じけんー? 荒川に浮浪者の死体があがった?」

「いや、事件じゃないが野暮用だ。お前らも早く切り上げろよ。本当に補導されるからな」

うぃーす、おつかれーす、という声を背中で聞きながら、始関は数歩行くとふと足を止め、肩越しに振り返った。

「お前らチーム名、あるの?」

「TEAMエス」

「デカい奴ら揃ってか」

「サイズのエスじゃねっす。始めたのが俺とショウ、サキ、センリ、そっちのスワ。全部エスだから」

「簡単だな」

「シンプルっていってほしーな。ってことは始関サンも入れるか」

「考えておく」

顔の横で手を上げ、小走りで駐車した車まで戻った。

アルファロメオ、クアドリフォリオヴェルデが、怪物の赤い目のように闇夜に鈍く光っている。

トランクルームを開け、着ていたスウェットを一度脱いでスポーツバッグの替えのTシャツを頭から被る。

シートに座ると、さっそく雅季から送られてきた住所をナビに入力した。ここから5kmほどの場所だが、彼女の家ではない。――グランド・フィオレ……マンションか?

勤務時間外に部下が上司を呼び出すなどあり得ないケースだが、雅季なら例外を適用してもいいと思ったのは、きっと久々のゲームで気分が昂揚しているせいだと自分に言い聞かせ、車をスタートさせた。

イタリア語で「四葉のクローバー」という意味のガッチガチなスポーツ車は、恋人が「これがいい」と言うから買った。

硬質なシートは慣れると却って楽で、アクセルを踏めば、快感に似た力強い加速感が身体を包み込む。

仕事の疲れをひとときでも忘れさせてくれる相棒だ。

ふと、ハンドルの感触がいつもと違うことに気が付いた。いや、これはボールの感触がまだ手に残っているのだ。

手のひらが痺れるほどの重いパス。闘志と身体のぶつけ合い、微かな動きと視線での騙し合い。

――あいつら、暴れ過ぎ。年寄りをもっと大事にしろっつうの。

move the ball, pass the Ball

short shot, long shot

get Loose, side to side ,you have to deal with match…….

高校時代のバスケクラブコーチの声が耳に甦る。

久々だ。こんなに興奮したのは。

そして、こんなことも久々だ。恋人以外から電話で呼び出されることも。

カーナビの音声が目的地周辺を告げ、案内が終了した。目の先に、暖色のポーチライトに照らされた瀟洒なマンションがある。

周辺も落ち着いた佇まいで、夜道に人通りがなかった。一応、雅季に電話を入れ、到着した旨を知らせると、地下駐車場のゲートを開けるから、来客用のそこへ停めてくれと返って来た。

――彼女は一体ここで何をしているんだ?

まあいい、すぐにわかる。エレベーターに乗り、指定された5階――最上階――を押す。

落ち着いた内装の内廊下をプレートの番号を見ながら奥へ進んだ。5005、5006……ここか。

シルバープレートに印字された名前――5008 久賀――に、始関は「がっかり」と「やっぱり」が、入り交じった溜め息を吐いた。

 

「ああ、どうも」

玄関を開けた久賀丞已《くが じょうい》は愛想もなく、むしろ迷惑顔全開で始関を迎え入れた。その後から、ひょいと電話をして来た張本人、篠塚雅季《しのづか まさき》が顔を覗かせ、黒目がちな大きな目を瞬かせる。

「始関さん、すみません。突然、お疲れのところ……」

「ちょっと、篠塚くん。その新妻ポジション、嫌だな~」

「そ、そんなつもりじゃないんです……」

照れたように顔の前で手を振った雅季は「あっ」と小さく声を上げると、始関に詰め寄り、パーカの胸に触れた。

「このグレー、いい感じですね!」

始関は動じるも無く、雅季に胸を撫で回すがままにさせ、つむじに話しかける。

「え? これ、もうかなり着てるけど」

「ええ、なんかこの色の落ち感が……あっ、すみません!」

「雅季さんのグレーフェチを知って、それ着て来たわけじゃないですよね」

慌てて一歩退いた雅季の肩に、両手を置いた久賀が始関に疑わしげな視線を向けた。

「そんなことまで僕は知りませんよ。ジョギングしてたんだって。ところで、脱いでもいい?」

「えっ!? こ、ここでですか?」

「警視、何考えているんですか」

始関は同時に声を上げた二人の顔の前で人差し指を上げてから、足下を指す。

「じゃ、土足でいいの?」

あ、靴……。と雅季はほっと表情を緩め、「むしろ、そのままお帰りいただいて……」と言いかけた久賀のポロシャツの裾を引っ張った。スーツを脱ぎ、麻のパンツを穿いた彼は異様に端整な顔だちをのぞけば、上背のある普通の青年だった。

「あ、これ。途中、スーパー開いてるところあったから、手ぶらじゃ何かと思って。ジンちゃんに」

始関は手にしていたビニール袋を、ランニングシューズを脱ぐのを待っていた雅季に渡した。

「わあ、小松菜。ありがとうございます!」

「オーガニックじゃなくてごめん。農薬気になるなら、持って帰らなくていいよ。検事にあげれば」

「私なら農薬まみれてていいっていうんですか。それより、ここ、私のうちですから。なんで手みやげ、雅季さんになんですか。それもペットのリクガメに」

廊下の途中で立ち止まった久賀は振り向き、眉をひそめた。

「だって、久賀検事のうちに招待されると思ってなかったし」

「まあ、してませんからねえ」

「久賀さん!」

雅季は久賀に駆け寄り、「ちゃんと、分けてあげますから。ね?」と顔を覗き込んでいる。

二人の後にリビングに入った始関は、ひとまず部屋をぐるりと見回した。磨かれたフローリングの床。部屋の中央に紺色のラグマット、ローテーブルを挟んでテレビとソファ。テーブルの上にはグラスが二つとUNOが乗っていた。モスグリーンのカーテンの向こうはベランダか。

「盛りのついた男の部屋にしては綺麗だね。造りも贅沢だし広いし。2LDK?」

「なにか頭に余計なものが聞こえましたけど、まあ、部屋の中身は頭の中身といいますからね」

「あ、じゃあ結構空っぽってことか」

「無の境地に限りなく近い、って言って欲しいですね」

「またまた。煩悩の塊の部屋だろう?」

「ちょっと! なんで”はくて”持ってるんですか。しかも装着するんですか」

おもむろにスウェットパンツのポケットから早速白手袋を出し、装着する始関に、久賀が慌てて声を上げた。

「え? ふつう携帯してない? 物取りとかじゃないの? だから僕に電話してきたんでしょ?」

「いや、物取りだったらわざわざ始関さんじゃなくて、普通に110番します。雅季さんがどうしてもっていうから」

「え? よくわからないけど、まあ、せっかくだから、やましいものがないか調べて行こう」

「ここにやましいものなんてありませんからっ!」

二人の間に大人しく佇んでいた雅季が、たちまち上気する。

「なんで篠塚くんがそんなに焦るの。じゃあ、寝室からにしようか。どこ?」

「あっ、そっちのドアです」

反射的にさっと指差した雅季に、久賀と始関は顔を同時に向けた。久賀は「ハァー」と長いため息を吐く。

「篠塚くんさ、なんでそう簡単に地雷踏むかな」

「あっ、え、あ……」

久賀と始関を交互に目をやる雅季の隣で、久賀は気まずそうに髪を搔き上げ、始関は「やれやれ」と白手袋を外してスウェットのポケットにしまう。

「まあ、いいや。で、用事って何なの」

「あー、UNOです。UNO二人だとつまらないから、誰か呼ぼうって雅季さんが」

「は? で、なんで僕なの? UNO!? UNOってあのUNO!? サムでも柏木くんでも呼べばいいじゃないか」

「青鞍さんは今日は当直です」

「柏木くんは四十三歳にして先週三人目のお子さんが生まれたので、二人の子供さん連れて奥さんの実家に行ってます」

「ああ、そうなんだ。おめでたい話だね。ご祝儀用意しておこう」

「始関さん、せっかくなので、どうぞこっちに座ってください」

すでに雅季は、「UNO、古い方ですけど……」と言いながらいそいそとローテーブルから箱を取り、ラグの上に座ってカードを切っている。

「何飲みます? 私と雅季さんはビール飲んでますけど。ワイン飲みたかったら開けますよ」

「あー、車だから水でいい」

「水道水でいいんですね」

「ミネラルウォーターくらいあるだろう」

久賀は小さく肩をすくめた後、キッチンへ向かい、始関は雅季の右隣に陣取った。

「あ、始関さん、人の覗いちゃダメですよ……。そうだお祝儀、私も……」

「いいよ、篠塚くんのぶんも乗せておくから」

水のグラスを手に久賀が戻って来ると、始関がふざけて雅季のカードを覗き込もうとしている。

「そんなの、ダメです……」

「気にしないで。大したことじゃないし。上司としてね……」

久賀はテーブルを挟んで向いに胡座をかき、既に配られていたカードを取った。

「雅季さん、やめておきなさい。タダより高いものは無いっていうでしょう。上司だからっていう理由はおかしいでしょう」

雅季に肩を寄せる始関の間に、久賀の鋭い声が割り込んだ。

「うわあ久賀検事、説教してる。僕の部下をいじめないでね。逮捕するよ」

「あなたには一番逮捕されたくないですね。ありもしない余罪とかくっつけられそうですし」

「あの、とりあえず始めましょうか……」

紅一点の雅季がまず親になり、山からカードを捲った。

「久賀検事、ヒップホップなんか聴くんだ。意外だね。これ、誰?」

「Eric B.&Rakimです。あとArrested developmentとか混ざってますけど。 邪魔なら消しますよ。はい、緑の3」

「あー、いい。邪魔じゃない。ていうか、あの無駄にデカいテレビの隣にあるボードってスケボー? 久賀くん、隠し子でもいるの? 息子が忘れて行った?」

「いるわけないでしょう。私物です」

「すごいんですよ。久賀さん。この間スケートパークに行ったんですけど、すいすい滑っちゃって。高いジャンプとかターンとかも……あ、リバースで、始関さんです」

久賀が出しかけたカードを引っ込める。

「雅季さんは、乗ったら自分で少しは動かなきゃだめなんですよ」

「でも、止まらなくなったらどうするんですか」

「二人とも、不健全な会話止めて。はい、僕もリバース」

雅季は「不健全……?」と、首を傾げながら緑の8を重ねた。

「僕は小学校からバスケ一筋だったからな」

「あっ、始関さん高校までアメリカだったんですよね。バスケはやっぱりNBAですか!?」

「よく知ってるねー、篠塚くん」

「それしか知らないんですよね」

「検事、それきつい。今、この数分丸ごとリバースしたいと思ったよね? 思ってるよね? でも、リバースしたところで口から出た言葉は取り消せないしねえ。ていうか、なんかさっきから篠塚くんに冷たくない? あ、もしかして僕と仲良くしてるから嫉妬してるとか?」

「してたら悪いんですか? 始関さんの番ですけど、出さないなら早くカード引いてください。いつまでたっても終わらないじゃないですか」

「えー、僕は一晩中やっててもいいけど」

「いや、なるべく早く帰ってください」

またそんなこと……、と雅季は久賀を軽く睨み、すぐに始関に微笑んだ。

「楽しいんですよね、始関さん」

「え、私にはそんな風に見えませんけど。大体始関さん、いつも能面みたいに表情がないじゃないですか」

「ありますよ。うちのジンちゃんに比べたら」

「カメと比較されてますよ、始関さん」

くすっと久賀が鼻で笑うと、始関は得意げに顎を上げた。

「ジンちゃんは篠塚くんの特別な存在だから、僕も同じレベルってことだよね」

「すごいボジシン……はい、始関さんスキップ。雅季さん、どうぞ」

「え、ちょっと待ってよ。このままなら僕がいい線で上がれたのに。検事ってホント腹黒いよね」

「そんな風に思ってたんですか。じゃあ、今度はドローツートリプルで。ほら、これでお望み通りゲームが長引きましたよ」

「うわ、やだねえ。法律畑の人間は心が狭量で」

一枚、二枚と数えながら緩慢な手つきで始関は山から六枚取り上げる。

「そういう始関警視もT大法学部じゃないですか」

「ちゃんと勉強しなかったから、意味ないよ。あ、でも篠塚くんも法学部か」

「そうですよ。始関さんや久賀さんのようなレベルじゃないですけど。あ、ウノです」

「いやいや、優秀な成績だったじゃないですか。あ、ねえ久賀検事、これ終わったら何か食べさせてよ。僕、走る前何も食べてないんだよね」

久賀はちらっと上目で始関を見たが、投げやりにカードを出しながら言った。

「何がいいんですか? 冷蔵庫にあるもので適当に作りますよ」

「納豆とあんこと不味いもの以外ならなんでもいい。はい、篠塚くんドローツーね」

ああっ、と雅季は情けない声を出し、しぶしぶカードを取る。

「贅沢言うくらいなら、出前でも取ればいいんじゃないですか。自分のうちで」

「納豆美味しいのに。私、ほとんど毎日食べてますよ」

「じゃあ、納豆ご飯にしましょう。はい、ウノです」

「そんな、かわいそうですよ。じゃあ、私が作りましょうか? ご飯があればチャーハンとか……」

「あ、いいね。チャーハン。篠塚くんの手料理かあ」

「雅季さん、ここでは上司も部下もありませんからね。私が作ります」

結局ゲームは久賀が勝ち、負け組に片付けを命じてキッチンへ立った。手際良く材料を調理場に並べて「玉子、ネギ、塩……」と指を差しながら呟く。

「また指差し呼称してる」

後から来た雅季が小さく笑うと、久賀は「あ」と人差し指を見つめた。

「久賀さんの癖なんですよ」

テーブルに着いた始関の反対側から、グラスに水を注いだ雅季は秘密を打ち明けるように囁くと、水のボトルを片手に冷蔵庫を開けた。

「あ、ちくわもありますよ。じゃこも。どちらか入れましょうか」

「両方入れていいよ、篠塚くん。柚子胡椒もあれば……」

「私のちくわとじゃこですから、勝手に許可しないでください。柚子胡椒はありません」

「じゃあ、私ちくわ切ります。冷凍ご飯はレンチンでいいですよね」

「僕も何か手伝おうか」

「始関さん、料理出来るんですか?」

久賀は中華鍋を火にかけ、ボウルに割った玉子を掻き混ぜながら始関に横目を流す。

「パスタを茹でて、レトルトのトマトソースを温めるとか、フリーズドライのみそ汁に熱湯を掛けるとか、炊飯器のスイッチは入れるけど? あ、米は無洗米ね」

「じゃあ、そのまま水飲んでいてください。あ、雅季さん、包丁切れるから気をつけて」

身長差が二十センチはある久賀が雅季に顔を寄せ何かを言うと、雅季が嬉しそうに頷く。仲睦まじく言葉を交わしている後姿は微笑ましい。なにより、職場と百八十度、雰囲気の違う無邪気な雅季が別人のように見えた。久賀の前ではこんなに無防備なのか。

雅季に特に恋愛感情があるわけではないが、二人の姿は始関の男としてのプライドと邪な感情を刺激した。

「でもすごいね、結構本格的に調理器具揃えてるんだ。久我検事は料理も出来るんだから、一生独身でも困らないよね」

久賀と雅季は一瞬会話を途切らせて顔を見合わせると、同時に始関に向いた。

「いい道具はいろいろ面倒な手間が省けますからね。あと、料理が出来るというスキルは、食べてくれる人がいて初めて生かされるんです。自分ひとりだったら私だってまめに料理しませんよ。ていうか、いい加減ここで『検事』って呼ぶのやめてくれませんか。自分の家なのに全くリラックスできないんですけど」

「じゃあ、ジョーイは結婚したいんだ」

久賀は「ちょっと」と、米をほぐしていたお玉を鍋の縁にカンカンと打ち付けた。

「いきなりジョーイって、そうやってハードル踏み倒してこっちに来るってどうなんですか? 質問の答ですが、『したい』ではなく『する』んです。まあ、それは私個人だけの問題じゃないんですけど……」

久賀がちらっと向けた視線が雅季のそれと合うと、雅季は耳まで赤くして下を向き、ちくわを切る手を動かした。

「あ、雅季さん、そんなにちくわいらないんで。ベランダに行って大葉をとって来てくれますか?」

久賀の助け舟に雅季は一つ頷き、リビングを横切ってカーテンの後ろに消えた。それを見送った始関は、水を一口飲んで切り出した。

「まあ老婆心だけど、雅季くん大事にしてよ。彼女、ヘビーな過去背負ってるじゃない。よく見ればわかるけど普段は張りつめすぎて可哀想だ。今日みたいな格好、ベビーピンクのサマーセーターに白のワイドパンツなんて絶対に署じゃ着ないから。黒かグレーか紺ばっかり。もう、あれで心に鎧を着せてるって感じ。それに、あんな隙だらけの顔、絶対に見せない」

「私だからでしょう。彼女、私があの時の、唯一の目撃者だって知ってますから。見てたんです、一部始終を。私が住んでいたマンションから現場が丸見えだったんです。彼女と同じマンションですよ。階は違いましたけど」

仕上げにフライパンを振っていた久賀がちらと肩越しに視線を送ると、始関は目を見開き、すぐに「ああ」と合点が行ったように目を細めた。

「それは知らなかったな。まあ、とにかく篠塚くんは、うちの”とっておき”なんだから、頼むよ」

「その点は、全く心配いりません。それより始関さんはずいぶん過保護だと思いますけどね。雅季さんに」

「そりゃあ、僕なりに大事に育ててるから。あ、好きなものが同じって、僕と久賀くんって意外と相性いいんじゃないかな」

久賀がチャーハンに軽く醤油を垂らすと、たちまち香ばしいかおりが漂う。

「迷惑ですから、それ。大体、始関さんは人を育てられるタイプじゃありませんよ。育てる対象に感情移入している時点でダメですね」

「さすが検事、人を見てるよね。僕ら警察とは正反対。でも残念だなあ。せっかく告白したのに……」

「うまく行ってないんですか、CAの彼女と。今もパリですか」

「久賀検事が心配することじゃないよ。でもさ、久賀くんが彼女の、幼女強姦未遂の過去を知っていることが必ずしも彼女にとって心地いいかって、どうだろう。知らないからこそ今のそのままの彼女を受け止めることが出来るんじゃないの。感傷で繋がってるって、不健康だと思うし、その関係は結構もろいんじゃないかな。まあ、久賀くんが僕くらいの歳になれば、そういうこともわかると思うけど」

「やけに絡みますね。結局、年上ぶって説教ですか……」

火を止めた久賀が、UNOでは憎らしいくらいポーカーフェイスだったそこに初めて苛立ちを露にしたとき、「きゃあ!」と雅季の悲鳴が聞こえた。

せつな、二人は弾かれたようにベランダを目指していた。

「雅季さん!?」

「どうした、篠塚くん!?」

ベランダに飛び出した久賀に、手すりを握り締めていた雅季がしがみついた。足下にはペンライトが落ちている。

「む、虫が」

雅季は久賀の胸に顔を埋めたまま、怖々とプランターの方を指す。

「虫……」

男二人は同時に胸を撫で下ろした。

「血まみれの現場を見慣れている雅季さんが、虫が苦手とは知りませんでした」

久賀は”よしよし”と嬉しそうに雅季の頭を撫で、しゃがみ込んだ始関は大葉が生い茂るプランターにペンライトを当てて、葉を裏返しては念入りに調べた。

「でも、死体はもにょもにょ動かないし……」

「虫からしたら、篠塚くんのほうがずっとデカくて怖いよ」

「始関さん、ひどいです」

「そうですよ。雅季さん160センチないのに。その言葉リバース出来ませんからね」

「うわ、久賀くんて根に持つ人なんだ……」

「なんですか」

「いや、なんでもない……。ああ、これウワバだ。害虫ネット使った方がいいよ。久賀くん、大葉育てるの初めて? アファーム乳剤も虫除けになるけど、食べ物だから農薬はいやだよね。ハダニ対策には毎日霧吹きがいいかな。あ、僕、帰るときこれ持って行くよ」

「持って行ってどうするんですか。始関さん的に大事に育てるんですか」

見えない何かから守るかのように、久賀はさらにしっかり雅季を抱き寄せた。

「いや、外に放してあげようと思って」

「そうですか。それはいい心がけですね。あ、始関さん大葉食べたいだけ取ってください。それで食事が済んだらさっさと帰ってくださいよ」

雅季を解放した久賀は「先に用意してますからね」と、一足先に部屋に戻っていった。

「害虫なのに、放してあげるんですか」

雅季はペンライトを受け取ると後ろから照らしながら、大葉を摘む始関の白い手元をこわごわと覗き込んだ。

「害虫って言うのは人間の都合でしょ。彼等にはちゃんと役割があるんだからさ……」

立ち上がった始関は、雅季に向かって微笑んだ。……つもりだったが、うまく笑えたか定かではなかった。

楽しい時間を過ごしたあとは、自分の中の寂しさに敏感になってしまう。たとえ隠そうとしても、こうして油断した隙に顔を覗かせる。

俺、油断してるのか。

始関が心中で苦笑した時、

「始関さんは、優しすぎます。それって、逆に相手には優しくさせてあげないから、酷だな、って思います」

雅季が静かだが、凛とした声で言った。

「ごめん」

「い、いえ、私の方こそ生意気言っちゃいました……。ごめんなさい。つい、口が滑って」

雅季は慌てて顔の前で手を振った。

「いいんだ。そうやって踏み込んでもらえる方が嬉しい」

始関が見せた笑みに、今度は雅季もつられて微笑んだ。

「あ、」

思い出したように始関は声を上げた。

「そうだ。篠塚くんはTEAMエスに入れるよ」

「TEAMエス?」

雅季は唐突な話に戸惑い、眉尻を下げる。

「ちょっと面白いこと。でも久賀くんは入れないから内緒ね。あの人君のことになるとすぐ熱くなるから」

「ええ? そんなことないですよ。私のほうが好きだから……」

「言うねえ」

雅季が答えの代わりに、はにかんだとき、奥から久賀の声が聞こえてきた。

「あ、早く来いって。いきましょう」

始関は、踵を返した雅季の背中に――それでも、男はいつでも不安なんだよ、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

優しすぎるのは良くないって言われたばかりじゃないか。

get Loose, side to side ,you have to deal with match…….

そうだ。三人いれば、ゲームが出来る。

 

 

 

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検事 久賀丞已 (始関晃穂紹介編)

篠塚雅季は数字を記入していた精算書から顔を上げ、警察官になってから愛用しているウェンガー社の腕時計に目をやった。

午後十時十五分。自分一人しかいない、がらんとした部屋を見渡してペットボトルの水を一口飲んだとき、突然、目先のドアが開いてダークスーツ姿の始関晃穂(しせき あきほ)が入ってきた。

「お疲れさまです」

ピンと背を伸ばした雅季に、始関は軽く頷いた。あまり贅沢でない広さの刑事部屋が、長身の始関がいることでさらに狭く感じる。

「篠塚くん。当直ご苦労さん」

「始関さんこそ、こっちに戻ってしまっていいんですか? 池ノ下署の合同捜査本部は……」

「今日、本庁から応援が来て少し楽になったから。それに、さっきの電話気になったから様子見に来た。酔っぱらい同士の傷害だって? サムと根古里(ねこり)さんは取調べか」

死体遺棄事件で先週から合同捜査本部にかり出されている始関が『なにかあった?』と電話を入れてきた際に、雅季はちょうど居酒屋から通報があった旨を伝えた。

「はい。今、一人ずつ事情を聞いています」

始関は課長室に戻らずに雅季の隣、青鞍沙武(あおくら さむ)の席に座った。広がっていた書類を脇に避け、顎に肘をついて天井を見る。

「それ、精算書?」

「あ、はい。溜めてしまっていたので」

雅季は落ち着かず、ボールペンを置くと椅子の上で姿勢を正した。

本庁勤務後、FBIで研修を受けた警視、始関晃穂が半年前にこの鳴海署の課長に就任されたのは、彼の父親である官房長官との確執が原因らしいという噂を、雅季は就任直後に総務の絹田ロナから聞いていた。『身長185センチ、三十四歳、独身でキャリア。あ、彼女はキャビンアテンダントらしいですよ。私、一昨年の本庁のバスケ大会で警視が飛ぶの見てからファンだったんですよね~。感激ですよ~』。給湯室で会議後の湯のみを洗いながら、ロナは鼻歌を歌うように履歴書にも載っていない情報を披露してくれた。しかし、『飛ぶ』って何だろう。飛ぶって。

始関は何も言わずに宙を見つめている。気まずい沈黙に堪えかねた雅季が口を開いた。

「コーヒー、いれて来ましょうか」

「ありがとう。でもコーヒーは飲み過ぎたから、さすがにいいかな」

「じゃあ、お茶でも……」

雅季が立ち上がろうとすると、始関は初めて素早く反応した。右腕をジャケットの上から軽く押さえられただけなのに、始関の縋るような視線に合うと雅季は動けなくなった。

「篠塚くん、何もしないでここにいてくれる。ちょっと、いいかな」

「はい……え、し、始関さん?」

雅季が座りなおしたとたん右肩にいきなり始関に頭を載せられ、全身が強張った。

「セクハラで訴えてもいいから、少しだけこのままで」

「は……はい」

普段からゼニアのスーツを着こなし――これはロナの情報――、睡眠時間がほとんどないハードな捜査が続いてもいつもキレッキレの始関の行動にしては軽卒すぎる。雅季は困惑し、落ち着こうとスカートの膝の上でぎゅっと拳を握った。

「あのさ、捜査本部が所轄と本庁の連中で雰囲気悪くてね。みんな自分が手柄たてたくて仕方ないみたいで。情報は出し惜しみするわ、無理な仮説にこだわって無駄な動きするわで……」

雅季は自分の耳を疑った。始関が自分に愚痴……いや、気持ちを吐露するなんて。

「相変わらずですね……」

叩き上げの刑事たちとキャリア組が捜査上で衝突するケースは、警察官を六年やっていれば珍しい話ではない。むしろそればかりだ。

「犯罪を減らして安定した社会を作りたい、という目的は一緒なはずなのにどうしてこう温度差があるんだろう」

「いや、もう目的から違うんですよ」

――もっと、ましなことは言えないのか――雅季は言ってから自分に苛立った。そんな胸中に構うことなく、始関は雅季の肩の上で顔を伏せたまま訊ねた。

「篠塚くん、平熱何度?」

脈絡のない質問に戸惑いながらも、雅季は上司の質問に答えた。

「36.1です」

「僕36.3。よかった、大体同じだ。篠塚くんとはあまり温度差がない」

――そう言う問題では。

雅季はその言葉を飲み込んだ。そんなこと、警視だって百も承知だ。ただ、こんな数字だけでも、確かなものに縋りたいのではないか。

そう思ったとたん、手が勝手に動いていた。雅季の左手の下で、ぴくっと始関の頭が動いた。だが、それ以上の変化はない。

「セクハラの……お返しですから。これで、おあいこです」

ほとんど頬に触れそうな頭頂から額の方へ『いいこ、いいこ』の手つきでゆっくりと動かす。

『警察』という特別厳しい階級社会で、上司の頭を撫でるのは自分が初めてだろう。今、青鞍や根古里が部屋に入ってきてこの光景を見たらどう思うだろう。でも、この行為が今この場では自然な気がした。ほとんど額を隠す前髪はやや硬めだが、艶やかで撫でていて気持ちが良い。

お世辞にも新しいとはいえないエアコンが、低い音を立てて風を吐き出している。

――始関さんの頭、重いな……いっぱい中身が詰まってるからかな。それとも、いろいろ考えすぎてるから? そう言えば、久賀さんの頭はどうだろう。腕枕をしてもらうのは自分ばかりだ……。

始関の頭を撫でていると、どうしてか自分の気持ちが穏やかになっていく。自分が慰めているつもりで、相手に癒されているようだ。

緊張が解けた雅季は、率直な疑問をぶつけていた。

「始関さん、もしかして、寂しい……ですか? 嘘はだめですよ。虚偽申告で勾留しちゃいますから」

言ってから、少し調子に乗りすぎたと雅季は焦ったが、くくっと始関の喉が鳴るのを聞いて、ほっとした。

「寂しいですよ」

「彼女は機上の人ですか」

「何? 予防線張ってるの?」

「いえ、そういうわけでは……」

今度こそ失言だと、唇を噛む。自惚れていると思われたか。雅季は始関の頭を撫でている手を止めた。

「続けて。そうじゃないと、僕だけが訴えられる」

「あ……、はい」

まだ戸惑いながらも雅季は愛撫を再開した。

「あのね、篠塚くん。君は辛い経験をしたけど、それをほとんど乗り越えたと僕は思ってる。半年間君を見ていてそう思った。だから、君にはこれから楽しいことしか起こらないから。僕が保証する。僕なんか辛い経験があまりないから、楽しいこともない」

あ……。雅季の手が今度こそ止まった。始関は知っている。自分の忌まわしい過去を。小学生のときに見知らぬ男にわいせつ行為を強制されたことを。

「どうしてそれを」

「一緒に仕事をする部下のことをちゃんと知りたいと思うのは、当然じゃないかな」

そうだ。調べればすぐにわかることだ。それに、不思議と始関に自分の過去を知られても気後れや不快を感じなかった。

確かに彼が言うように、あれだけ自分を縛り付けていたトラウマという鎖はとうに外れていたのかもしれない。今まで他人にこうして指摘されなかったから気がつかなかっただけで。

――でも、きっとそれは久賀さんのおかげで……。久賀さんが現れてから……。

「篠塚くん、ダダ漏れだよ」

「えっ……、私、久賀さんのことなんて考えてませんから!」

「僕は久賀検事の名前は出してないけど?」

「あっ……」

始関はそこでやっと頭を上げた。少し近いな、と雅季は顔がよけい熱くなるのを感じる。切れ長の目がおかしそうに細くなる。薄い唇の口角がくっと上がった。

「い、今のは交渉のテクニックですか!?」

FBIで交渉人としても研修を受けた始関は特殊捜査班係長補佐も兼任していた。

「いや? こんな単純な手にひっかかる人、初めて見た。篠塚くん、刑事に向いてないかもね」

「すみません……」

「僕だから、隙を見せたんだよね?」

「え?」

目を瞬いた雅季の前で始関は伸びを一つすると、立ち上がった。

「取り調べ見て来る。朝までよろしく」

「あ、はい」

ドアノブに手を掛けて、始関は肩越しに振り返った。

「さっきの、写メ撮っておけばよかったな。セクハラの証拠写真として提出すれば、久賀検事、速攻起訴しただろうね」

「始関さんを、ですか? それとも私を、ですか?」

始関は顎に手を当てて、「ふむ」と一瞬考える素振りを見せたが、すぐに雅季に向いた。

「本人に今聞いてみたら? 向こうも仕事してるでしょ、どうせ」

「えっ……、いえ、私仕事中ですから……」

それに何をどうやって聞けと言うのか。雅季は慌ててボールペンを手に取り、書面に顔を伏せた。

「三分。それなら電話許可する」

雅季がぱっと顔を上げると、上司の姿はもうなかった。

一つ溜め息を吐き、腕時計を見ると十時半だった。始関との時間は十五分足らずだったのに、とても長かったように感じる。

始関晃穂は不思議な人だと改めて思う。その存在感――経歴も含め――はものすごいのに、つかみ所がない。女性、男性問わず課員たちは始関に憧れを持ちつつ、その冷淡な外見に怖れをなしている者も少なくない。

――威圧とは違う。ああ……そうか。

雅季の脳裏に始関の『寂しいですよ』という声が蘇った。

すごく素直な人なのだ。その素直さがかえって諸刃の剣となって人を寄せ付けないのだ。不器用なだけ。不器用だけど、それを受け止めてくれる人が一人でもいたら、嬉しい。

雅季はスーツのジャケットから携帯電話を出した。

番号を呼び出し、発信ボタンを押す。腕時計を見る。――三分なら確かめるにはじゅうぶんだ。

「あ、お疲れさまです。あの、ちょっと聞きたいことがあって、今いいですか? あの、……私の頭、重いですか? え? それ、ひどい……。あ、はい。明日ですか? ええ……」

電話を切ると雅季は書類の山に向き直り、気持ちを引き締めた。

久賀を頭から追い出した当直の夜は、長い。

 

第一話 始まりは、再会

 昔々、まだ王様が国を統治して、葦毛や、ぴかぴかに光る黒鹿毛の立派な馬に乗った騎士団が腰にすらりとした剣をぶら下げて街を闊歩していた頃のお話。

 町外れの小高い台地にこざっぱりとした一軒家がありました。家の裏にはバラ園があり、色とりどりの薔薇がふくよかな蕾を付けて、いつがお披露目どきだろうかとその頭を風に揺らしていました。日当りが良く、土地は肥沃で水はけもいい。家の周りは小さい区画ながらも畑が広がり、青々とした葉やたくさんの種類のハーブが土を覆い隠し、家の脇には何羽もの鶏が地面からミミズをほじくり、砂を散らして体を清潔にしていました。小柄ながっしりとした馬が一頭だけ、鼻を地面に擦り付けて、口を仕切りに動かしている、そんな風景がその家の日常でした。

 その家には一人の女の子が、否、先月19になったばかりの栗毛の女性が住んでいました。

 名前はグレーテル。

 この名前に聞き覚えがおありでしょうか。

 彼女の四つ年上の兄の名前はヘンゼル。

 彼らはまだ小さい時、口減らしのために森の中に捨てられました。魔女に食べられてしまいそうになったのを、二人力を合わせて魔女を退治し、宝を持って無事に森から出て来ました。そうです、あのヘンゼルとグレーテル兄妹なのです。

 彼らの両親はすでに他界しましたが、兄妹で全ての財産を分け合った後、賢いヘンゼルは街で商売を始め、財を増やし、家庭も持ちました。グレーテルはこの良質の土地と家を買い、残りの財産を減らさないようにバラ園で大好きな薔薇を作り、畑や農場で取れた野菜や卵を街に卸して慎ましく暮らしていました。

 グレーテルは栗毛の艶やかで豊かな髪を三つ編にしてゆったりと背に垂らしていました。畑仕事で一日中動き回る体には無駄な肉がついておらず、それでも女性らしい丸い線は肩と胸、ふわりとスカートを包むエプロンの結び目あたりに目立つのでした。

 * *

「ブルーノ、あんたの寝床に乾燥した藁を敷き詰めておいたわ。今夜は随分良く眠れるわよ」

 グレーテルは馬の背中をぽんぽんと叩き、話しかけた。そろそろ、昼食の支度をしようと、ハーブ畑に足を向けた時、「ちょっとお尋ねしたいのですが……」不意に後ろから声をかけられた。

 びっくりして振り返ると、真っ黒なマントに身を包んだ、長身の青年が立っている。

 い、いつの間に後ろに立っていたの? 人が来るのなんかまったく見えなかった…… 巡礼の方かしら。真っ黒な服を着ているし。教会の方に多いから……

 見通しのよい草地に、いきなり生えて来たように現れた男。それだけでもグレーテルは驚いたが、また、彼の端正な容姿にも視線が釘付けになった。この街の人ではない。

「お尋ねしたい事があるのですが」

 彼は良く通る声で繰り返した。

「は、はい」

 グレーテルはエプロンをきゅっと握った。

「あなたが、グレーテルさん、ですか」

 え?

 彼女は訝しげに目の前に立つ男を見つめた。警戒心で身が固くなる。何故この男は自分の名前を知っているのだろう。

 彼に見覚えは無かった。きっと、一目見たら忘れない顔だ。彼はグレーテルを見下ろしたまま、じっと彼女の言葉を待っている。

 グレーテルは我に返り、やっと答える。

「は、はい。私がグレーテルですが……」どちらさま、と口を開きかけたが、彼の方が一足早かった。

「あぁ、よかった。おまえ、オレの子供を産め」

 …………

 にやり、と口角に冷ややかな笑みを乗せている。それがあまりにも妖艶だ。不気味でもあり、彼女は一歩後ろに退いた。どうしよう。変な人だ。それでも隙を見せたら何をされるか分からない。

「はい?」

「おまえ、アレだろ、ヘンゼルとグレーテルの、グレーテルだろ。オレの母親は、お前たちに殺されたんだよ。覚えてないなんて言わせないから」

 サーッと血のひく音がはっきりと聞こえた。一瞬で空が雲に覆われたかのように、目の前が暗くなった。

「そのうえ、宝石や金貨までごっそり全部持ち出しやがって。それってさぁ、強盗殺人とかっていうんじゃないの? 罪、重いよねえ。子供とはいえ」

 もう一歩、退く。すると彼もまた一歩近づく。

「あ、あの人は魔女だったわ。ヘンゼルを、食べようとしていたのよ。ヘンゼルを食べた後は、一生私をこき使うつもりだったのよ。私たちが殺さなかったら、もっとたくさんの子供達が犠牲になったわ」

 グレーテルは何か身を守るものは無いかと、素早く周囲に目を走らせた。が、先の尖った小枝さえ落ちていなかった。

「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ、オレたちの種は絶えるんだからさ。おふくろはまだまだ種を作らなきゃいけなかったんだ」

「た、種を作るって……子供を作るってこと? あのよぼよぼの魔女が?」

「だから、子供を喰わなきゃ体力がつかなかったんだよ。あの頃おふくろはもう200を越えていたからな。オレは96番目の息子で長男だ。覚えてない? オレのこと。いつもおふくろの肩に止まっていてさぁ………

 肩に、止まっていた?

 グレーテルは、あの恐ろしい灰色の森の、崩れかけた一軒家での記憶をたぐり寄せた。

 決して思いだしたくはなかったが、全て忘れる程長い時間は経っていなかった。

 あぁ……

「あの……カラス?」

「なんだ、覚えていてくれたんだ。嬉しいな」

 彼は目を細めた。

「あなた、そう言えば魔女が釜に落ちた時、鳥かごの中でぎゃあぎゃあ騒いでいたわね。息子だなんて知らなかったわ」

「ああ、お前らの目を突いてえぐり出してやりたかったけど、過保護なおふくろに篭に入れられてたからな。あそこから出るのに何日かかかったんだぜ」

 平静を装って男に答えていたグレーテルだが、彼女のエプロンを握った拳は紙のように白くなっていた。

「じゃあ、あんたは悪魔、ってわけ」

「まあ、そうだな」

「復讐しに来たの? 私と兄を殺しに来たの?」

 悪魔は大きな溜め息をついた。

……あのさあ、おまえ、オレの話、聞いてた? もしかしておふくろが何も食べさせなかったから頭の発育が悪くなったのか? もう一度だけ言う。おまえは、オレの子供を産めばいい。おまえの成人病の塊の兄貴は、どうせ先が長くないんだ。オレが手を下すまでもない」

 悪魔の言う通りだった。ヘンゼルは魔女の家で散々贅沢なごちそうを毎日食べていたせいで、醜く太った。無事に家に戻ってからも胃はちっとも小さくならずに、反って持ち帰った宝石で食卓はいつも溢れんばかりの食べ物で賑わい、最初から最後まで席に着いて何かを口にしているのは、ヘンゼルであった。

 彼はそのおかげでまだ23だというのに糖尿病と高血圧、さらに最近は痛風まで患っていた。商売は全て使用人に任せきりの生活だった。

 それにしても、子供を産めとは。訳が分からない。

「ど、どうして私があんたなんかの、悪魔の子供なんか産まなきゃいけないのよ。悪魔なら魔女と子供を作ればいいでしょ」

「だって、おまえらのせいだもん。オレたちの種族の魔女が少なくなったのだって。オレの母親は、貴重な女種を産める数少ない魔女だったんだよ。ちなみに息子はオレ一人、後は全部女。おふくろはまだまだ女種を産まなきゃいけなかったんだ。それに、ただでさえオレたちの種族は上手く成人できないものが多い。だから、数が必要になる。そして、男の方が圧倒的に多いのもこの種族なんだ。それなのにおふくろをお前らが殺した。だからおまえが代わりになれ。それが第一の理由。第二は、オレのおふくろがおまえに魔法をかけておいたんだよね。女種しか作れない体に。自分に万が一何かあった時におまえを使おうと思ったんだな。魔女だからな。自分の身になにかありそうだ、って分かってたんだろう。だから、おまえが誰と何人子供を作ろうが、魔法を解かない限り男は産まれて来ない」

 グレーテルの頭の中は真っ白になった。いつの間にそんな魔法をかけられていたんだろう。全く覚えがなかった。

「えええええええ! 何それ! ちょっと、ひどい! 男が産まれなかったら家を継いでもらえないじゃない!! 解いてよ、魔法!」

 グレーテルは頬を紅潮して悪魔に突っかかった。

「ひどい、って、悪魔(ひと)の母親殺したヤツの言うことかよ。それに、言っておくけどその魔法は一度悪魔と契りを結んで、子供を産まないと解けない。その子供が、おまえの女種を受け継ぐことで魔法が解ける」

 それでは男を産むことを諦める以外に、どうしても悪魔と交わらなくてはいけないと言うことだ。

「サイテー!!」

「それはどうも。最高の褒め言葉だ」

 悪魔は密かにグレーテルとのやり取りを楽しんでいた。面白い女だ。見栄えも悪くない。声もいい。さりげなく彼女の体に上から下まで視線を走らせた。うん、やっぱり良い。

 悪魔は小さなグレーテルが母親に捕われてからずっと、彼女を観察していた。自分が家に居る時は大抵鳥かごに入れられていたが、グレーテルは魔女の目を盗んでは、自分の具のほとんど入っていないスープ皿から小さな肉片を取り出し、カラスである自分の篭に押し込んでいた。そして小声で必ずこう言った。「あんたも掴まったの? 可哀想だから少しだけど肉をあげるわ。魔女には内緒よ」オレの方が彼女よりもずっといいモノを喰っているとも知らずに。

 そんな記憶に思いを馳せていると、グレーテルの声が割って入った。

「悪いけど、私、悪魔(あんた)の子供を産むなんてまっぴら。だいたい、私、好きな人としか子供作りたくないもの。男の子は諦めてもいいわ。よく考えたら、養子を貰えばいい話だもの」

 悪魔はいきなり楽しそうに声を上げて笑った。

「あははは! 養子ときたか! 確かにな! おまえ、面白い。うん、ますます気に入った。じゃあ、おまえがオレを好きになったら、オレの子供を作るんだな?」

「あり得ません。さよなら」

 グレーテルは踵を返して、家の方へ歩き出した。悪魔は慌ててその揺れる三つ編みの後を追う。

「おい、待てよ。じゃあ、オレがおまえの魔法を解いてやる、って言ったら?」

 グレーテルは歩みを止め、勢い良く振り向いた。

「解いてくれるの?!」

 悪魔を見上げる灰色がかった緑の瞳は、期待に光を帯びていた。悪魔はその勢いにたじろぎ、視線を泳がせた。

「う……さすがに他の魔女(ひと)の魔法を完全に解くことは出来ないが、弱めることは、可能だ。」

「何それ。普通でさえ二分の一の確率なのに、それが男の産まれる確率が四分の一くらいになる、とかそう言う感じ? なんか意味無いっぽい」

「でも、確率ゼロよりマシだろ。でも、タダではやらない、おまえがオレとの勝負に勝てばいい」

「あんたの言い分はわかったわ。で、私は何すればいいの?」

「三週間だ。オレに三週間くれればいい。それだけあればおまえはオレに惚れる」

「つまり、三週間経っても私があんたに『好き』って言わなきゃあんたの負けで、私に掛かった魔法弱めて、シッポ巻いて帰るってことね。間違ってでも私があんたに『好きだ』って言ったら、私はあんたの子供を作らなきゃいけないわけね? なんかあんたに随分不利みたいだけど、いいの?」

「あのさぁ、『作らなきゃいけない』じゃなくて、作りたくなるんだよ。おまえが負ければ。まぁ、おまえ、絶対にオレのこと好きになるから」

「すごい自信ね。魔法とか使っちゃうわけ? セルフ処方の惚れグスリとか?」

「おまえ、オレを見くびるなよ。オレ、最強だぜ?」

 グレーテルは胸を張る黒髪の男を呆れ顔で見ていた。

「悪いけど、一緒に住まないわよ? 今日初めて会った悪魔なんかと」

「え! それ、かなり不利!」

 今までの強気な態度は一変して、急に悪魔は慌てる。

「一緒に住めると思ってたの?! 悪魔のくせに考え甘いわね。最強なんでしょ? なんとか自分でいい方法考えてね」

「あー、じゃあ、おまえの敷地内に家出してもいい?」

「邪魔にならないようなのなら、いいわよ。そうね、馬小屋の後ろ辺り。表からは目立たないけど日当りは悪くないから、あれ? 日当りの悪い方がいいのかな?………」あ! グレーテルは急に顔を輝かせた。

「お菓子の家、建てるの?!」

「は? やだよ、アレ、面倒くさいんだぜ。それに、おまえ、それこそトラウマじゃないの?」

 グレーテルは腕を胸の前で組み、うーんと考えている。への字になったピンク色の口元が、彼女を幼く見せる。

「いや、お菓子はやっぱり好きよ。お菓子をあのときいっぱい食べられたのは、悪い思い出ではないわ」

「あぁ、だからおまえの兄貴はあんなにデブになるんだよな」

「あんた、悪魔だからって調子に乗らないでね。お昼ご飯食べさせてあげないわよ。あんたとくだらない話してたらもう日がこんなに高くなっちゃったじゃない。後で仕事手伝ってよ」

 一気に彼女はそう言うと、先に立って歩き出した。

 ………なんか、もう少し大人しい女だと思っていたんだけど。思い出って当てにならないよな………

 悪魔はちょっと肩をすくめて、それでもまた急かされないうちに、彼女の後に付いて行った。

 

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第二話 秘密

 変な悪魔………

 グレーテルはベッドの上で寝返りを打った。月も無く、悪魔の好みそうな漆黒の、夜だった。

 悪魔、は、フロリアン、と名乗った。

 人間の姿になる時はこの名前を使う、フローでいいよ。

 春の日差しのように柔らかく笑う彼は、どうしても悪魔に見えなかった。

 悪魔だと言うのに、なぜか恐怖はあまり湧いて来なかった。

 あの魔女が、あいつの母親だったなんて。

 いまでも魔女を釜の中に押し込んだ時の感触が手の平に残っている。黒くて固い魔女の服。所々白く埃にまみれ、そのざらついた布の下の、皮と骨ばかりのゴツゴツとした背中。

 突き落としたあとは、無我夢中でほとんど何も覚えていない。魔女が炎に飲み込まれてから、壁に掛かっていた鍵束を掴み、子豚のようになった兄を檻から引きずり出した。

 その間にも、空気を引き裂くような魔女の悲鳴が家の中から響いていた。少し走っただけで苦しそうに息を切らすヘンゼルの手を引きながら一目散に走っていた時も、ずっと、その悲鳴は後ろから付いて来た。

 両親の元に返ってからも、あの魔女の目が、力なくたるんだ瞼の下のザクロのような真っ赤な目がいつまでも自分を見ているようで怖かった。

 それでも、あの時はそうしなければ自分が、兄の命が危なかったのだ。

 神様……どうかお守りください……

 グレーテルは首から下げた首飾りの、青い石をぎゅっと握り、瞼を閉じた。

 ギシ………

 真っ暗な部屋に、床のきしむ音が響いた。

 彼に、足元を照らすロウソクの火など必要なかった。

 闇に混じり、フロリアンはゆらりとグレーテルの眠るベッドに近づく。

 横顔を見せて、彼女は規則正しい寝息を立てていた。三つ編みを解かれた髪が枕に広がっていた。

 悪いけど、オレ、おまえの都合に構ってられないから。

 好きとかキライとか。なんで人間はそんな一銭にもならない感情を大事にしたがるのか。

 それとも一銭にもならないからこそ、大事にしたがるのか。

 悪魔と人間との間には、契約しか成り立たないと言うのに。

 フロリアンはグレーテルを一目見た時から、強く欲していた。

 グレーテルを見つけた。それだけで気持ちが昂ったが、くるくると変わる彼女の表情や、飾り気の無いその体から漂う野生の女の匂いが、彼の中の何かを常に刺激していた。それが何かは彼にはよくわからなかったが。

 カラスの姿だった自分に餌を与え続けたガリガリの、大きな目をした少女がどんな女に成長したのか、ずっと彼は大いに興味を持っていた。

 自分の母親が彼女に魔法をかけたのも、本当だった。魔法をかけた者と血のつながりのある自分なら、魔法を解くなど簡単なことだった。それでも、なんとか口実をつけて彼女に関わりたかった。

 その時はそう思っていた。

 でも、三週間なんか待ってられるか。

 オレはこの女が今すぐ欲しい。

 そうだ。オレなら許される。オレしか許されない。

 この女が美味ければ、オレの奴隷にしてやろう。そしてオレの種を増やし続けるんだ。不味かったら、こいつの兄貴みたいな豚にでもしてやるか。

 フロリアンは手を伸ばして彼女の頬に触れた。

 バチッ

 彼の指先で小さな火が散った。

 フロリアンは思わず身を引いた。

 指先が火傷したようにちりちりと痛んだ。

 なんだ………これ………白魔術か?! 一体、誰が………

 彼女の寝顔を見下ろす彼の顔は歪み、固まっていた。しかし、それもやがて楽しみを含んだものに変わった。

 面白い。見てやろうじゃねえか。こんな悪戯を仕掛けるヤツの顔を。

 そして彼は再び闇の中に溶けていった。

「そこにある鉢を、全部日向に持っていってくれる? あ、棘に気をつけてね。手袋すればいいのに」

 日が昇るのとほとんど同時に起き、鶏を外に放す。藁の中に産み落とされた卵を集める。畑に水をまく。そんな朝の仕事を片付け、朝食の後にバラ園での仕事だった。

「おまえ、こんな重い鉢いつも一人で運んでるの?」

 鼻歌を歌いながら、剪定しているグレーテルの横顔に話しかける。

「そうね、大抵は自分でやってるけど。でも、大変な時は近所の男衆にいくらか渡して、手伝ってもらうわ。今日はフローがいて助かっちゃった」

 グレーテルはぱっと振り向いて、微笑んだ。

 タンポポに似てるな、フロリアンは思った。

「ごめんください」

 表の方から声がした。

 あ………

 グレーテルの周りの空気が一瞬、緊張したのにフロリアンはすぐ気がついた。

「ちょっと、待っててね。絶対に出て来ないでよ」

 グレーテルは人差し指を彼に突きつけて、小走りで家の表へ回った。

 絶対に来るな、と言われれば、それは悪魔にとって絶対に来てと言うのに等しい。

 フロリアンはカラスの姿になると、屋根の縁に止まった。

「司祭様! おはようございます」

「グレーテルさん。おはようございます」

 聖職に就いた者と一般人との違いをはっきりと分からせる、黒いスータンの裾を引きずりながら、「司祭」と呼ばれた若い男がグレーテルに近づく。聖職者独特の全てを分かったような微笑みを浮かべながら。

「日が昇る前に森へ薬草を積み行ったんですよ。たくさん取れたので、お裾分けしようと思いまして」

「あら、それだけのためにお寄りくださったんですか。嬉しい……

 心無しか頬を染めて俯くグレーテル。

「少し横道に入るだけですよ。それに、グレーテルさんにもお会いしたかったし」

 その言葉に、グレーテルの頬はますます赤みを増した。

 なんだそれ。

 フロリアンはなんだか煮え切らない気持ちで、その若い男をもう一度良く観察した。

 陽の光で透き通るブロンドの髪は真っすぐに肩で揃えられている。グレーテルを見つめる色素の薄い青い瞳。

 もちろん、神に仕える者の特有の高貴な雰囲気は十分すぎる程漂っていた。ただ、それ以上に何か嫌なものを感じた。ブルッとフロリアンは体を震わせた。鳥肌がたった。

 二人は仲睦まじそうに短い会話を交わした後、グレーテルは司祭から一束の薬草を持たされた。彼女は一旦家に入り、卵と、朝積んだ苺の入った器を彼に渡した。

「ところで、グレーテルさんはお体の調子はどうですか?」

 首を傾げながらグレーテルは「御陰さまで元気ですが……」と答える。

「それなら、いいのです。ちょっとこの辺に濃い影を感じましたから。朝晩のお祈りを。グレーテルさんに神のご加護がありますように」

 司祭はそっとグレーテルの手をとり、それを軽く握った。

 グレーテルは固まったまま、去ってゆく司祭の後ろ姿がずっと小さくなるまで見送っていた。

 夕方まではグレーテルは好きなように過ごしていた。

 街に買い物に行くこともあれば、近所の、近くても徒歩で15分はかかる、エルダ伯母さんの家へケーキを食べに行くこともあった。森に行くこともあった。

 今日は家の前の青草の上に座って、エプロンの刺繍の続きに取り組んでいた。始めのうちは忙しく動いていた指も、だんだん休みがちになちになっていた。その手元から彼女の心ここに有らず、というのが一目でわかった。

「おまえさ、あの男のこと好きなの」

 フロリアンは隣に座り、グレーテルの顔を覗き込んだ。

 彼女はびっくりしたように手元から顔を上げ、ぽかんと口を開けたまま隣の悪魔の顔を見つめるのもつかの間、すぐに針を持つ手を動かす。その横顔は耳まで真っ赤だ。

「ばばばばばっかじゃないの。なんでそう思うの?!」

 ………ものすっごくわかり易いんだけど。

 と、口には出さず、楽しいからもう少しいじってみようとフロリアンは続ける。

「ていうかさ、あいつもおまえに気があるんじゃないの? 手なんか握っちゃってさ」

 グレーテルは一瞬体を固くした。もう、フロリアンの顔を見上げることもしない。ただ下を向き、一心に指を動かし続けている。

「なななんで、見てるのよ。 来ないでって言ったのに……そ、それに司祭様は心が広い方。誰にでもお優しいのよ!」

「でも、おまえ、好きなんだろ」

 質問ではなく念を押すように言う。

「そ、そんなことない! 神様にお仕えする方だもの。私なんか………った!!」

 かなり動揺しているのか手元が狂い、細い銀の針がグレーテルの指を突いた。赤い玉がぷくりと指先に現れ、膨らみ、筋になって指を伝った。

 フロリアンは咄嗟にその手を取り、指を口に含んだ。

 エプロンがグレーテルの膝から滑り落ちる。

「あ……」

 指に、彼の柔らかな舌の感触が伝わった。

 彼は丁寧に指を吸い上げひと舐めすると、彼女の膝に手を戻す。彼女の顔を横目でちらりとみると、グレーテルは顔を真っ赤にし、瞳は震え、今にも涙が流れそうに湿っていた。

 やっばーーーーー! 喰えるんですけど。今すぐ!!

 フロリアンは微動だにしないグレーテルの頬に指を滑らせかけ、ふと違和感を覚えた。

 反発しない? ……じゃあ昨日のアレは何だったんだ?

「おまえさ、いつも身に付けてるものってなんかある?」

「え? あ……うん。ペンダントを……」

 我に返ったグレーテルは胸元を抑えた。

「あれ? ……今日は忘れちゃったみたい。おかしいな。いつも忘れることなんか無いのに」

「それって、……もしかしてあの男から貰ったヤツ?」

「そうよ。お守りにって。ただでさえ女性の一人暮らしは危ないからお守りにって。ご利益あるのよ。ここに住んでまだ一度も変な目に遭ってないもの」

「じゃあ、オレが初めてだな」

 ほんとだ……妙に納得したようにグレーテルは瞬きをする。

「……フロー、あの、誰にも言わないでね。司祭様のこと。それと、あんたに謝らなきゃ。私、やっぱりあんたのこと、好きにならないわ。私、司祭様を見ているだけで幸せだもん」

「実らない恋なのに? 『私なんか』って言いかけたの、そう言う意味だろ」

 グレーテルの瞳が強張った。

「おまえ、オレのおふくろ殺しちゃったもんな」

「で、でも魔女だもの。神様だって許して下さるわ」

 神なんか、と言いフロリアンはグレーテルを冷ややかな流し目で見た。

「じゃあ、おまえの母親はどうなの? やっぱり、殺したじゃん」

 ひゅう、とグレーテルの喉が鳴った。眉根が寄り、フロリアンを見るその目つきが険しいものになった。

「どうしてそれを………」

「見てたからな……悪魔は酷いことをするって言われるけど、契約があって始めて動く。それに比べておまえら人間は容易(たやす)く感情に狂わされる」よっぽどそっちの方が恐ろしいよ、とフロリアンは青い空に浮かぶ、まだ薄い三日月を見上げて言った。

 ヘンゼルとグレーテルの両親はそもそも愛し合い、結婚に至ったわけではなかった。

 適齢期を過ぎても貰い手の無かった同じ村の母が、父のところに押し掛けて来たようなものだった。

 グレーテルの父親は美しい顔をしていて、誰にでも優しかった。そういえば聞こえは良いのだが、気が弱い男で、常に母の言いなりか、誰かの言いなりだった。

 森から出て来た子供たちが持ち帰った財宝のお陰で生活ががらりと変わった。

 ヘンゼルとグレーテルは学校に行けるようになったが、家族はほとんどばらばらになってしまった。

 母はまず街に家を買い(今はヘンゼルが住んでいるが)、金を湯水のように使った。昼間から酒を飲むようになり、酒場の男たちを家にまで連れ込んだ。グレーテルが家事の一切をし、もともと人付き合いのヘタな父親は、やはりきこりとしてほとんどを森の中で過ごしていた。

 ヘンゼルはよく、酔っぱらった男たちに殴られ、グレーテルも何かにつけて機嫌の悪くなった母親に殴られた。

 そんなグレーテルが十三になり、ヘンゼルが十七歳のとき。

 ある夜、妙な物音でグレーテルは目を覚ました。ドアの隙間から覗くと、ロウソクの頼りない灯りの中、ヘンゼルが見えた。父親が顔を寄せて何か低い声で話している。兄の、ぼんやりと薄暗がりに浮かぶ横顔は、やっぱりパパに似ているな、と彼女は思った。

 やがて父親とヘンゼルは家を出て行った。父は母をまるで小麦粉の入った麻袋のように肩に担いで。

 グレーテルにはなんとなく、彼らが母親を森に連れて行くのではないかと思った。

 そう、自分たちも森に連れて行かれたのと同じように。

 グレーテルはそれでもどうしてか随分落ち着いていた。

 少し経ってから上着を来て、そっと家を出た。月が道を白く浮き上がらせていた。

 森への道は街から一つしか出ていなかったので、彼らを追うのは簡単だった。森に入ると彼らは道を外れてどんどん奥へ入って行きーー時々父とヘンゼルは交代して母を担いだ。

 そして一本の木の下に来ると、幹に母親を縄でぐるぐると縛り付けた。

 母親は全く起きる気配がなかった。薬でも盛られたのかもしれない。

 この辺りの森は、オオカミや熊が、悪魔や魔女が出ることで知られていて、夜は人が近寄らなかった。

 ママ、食べられちゃうのかな……。

 彼らが去った後、グレーテルは茂みの影でそっと様子をうかがっていた。

 今思えば不思議だが、全く恐怖は感じられなかった。目の前に母親の姿があったからなのか。遠くでフクロウが鳴いていた。

 母親が起きたようだ。

 彼女の、自分の置かれている状況がわかるまで大して時間はかからなかった。母親は家族の裏切りを知ると、暴れ、騒ぎ出した。

 その声は誰にも届かないと、ママは知っているのだろうか。

 私たちだって、そうやってパパとママを呼んだのに。

 声をからした母親は、やがてがくりと頭を垂れた。

 いけない。

 グレーテルは茂みから飛び出していた。

「誰だい? ああ、おまえかい、グレーテル」

 母親は顔を上げて側まできたグレーテルの名を呼んだ。酒臭い息がグレーテルの鼻腔に入り込んだ。体からも酒の匂いが滲み出て来ているようだった。

「おお、おまえなら助けに来てくれると思ったよ。早く、早く縄を解いておくれ」

 グレーテルは急いで木の後ろに回り、縄を解いた。

 私は、あのとき何かを期待していたのだろうか。

 グレーテルは、思いを巡らせる。

 こんな酔っぱらいの母でも、やっぱり自分を愛していて、抱きしめてくれることを夢見ていたのだろうか。

 やっぱり、自分は子供だった。

 自由になった母はすぐにグレーテルの頬を張った。

「バカ娘!! どうしてあたしをすぐに起こさないんだよ! 男たちが運び出すのを黙って見ていたんだね?! あたしが死ねばいいとでも思ったのか!」

 そして、私はママの振り上げる拳から逃れたい一心で走り出した。ひたすら、足を動かした。まるであの時のように。

 次の日、森で獣に手足を喰いちぎられたママの死体が発見された。体はずたずただったのにも関わらず、顔にはかすり傷一つ付いていなかったという。ただ、くり抜かれた両の目を除いては。

 私がママを見殺しにした。あのとき、どんなに殴られてもいいから彼女を引っ張ってでも連れて帰るべきだった。

 自分可愛さに………

 そう、私は司祭様に恋心を寄せることすら許されない。

 汚れた心の持ち主だ………

 シロツメクサが一面に咲きこぼれる空き地を目的もなしにただ、苦い思い出とともに歩いていた。

 蝶は舞い、蜂は羽音をたてて忙しく飛び回っている美しい午後なのに。

「おや、誰かと思ったらグレーテルさん……」

「司祭様……」

 白い馬が近づいて来るな、と思ったら、それはたった今思いを馳せていた相手であった。

 考えていた矢先の出会いに、グレーテルは驚きを隠し得なかった。

「遠乗りには最高の天気だと思いませんか?」

 彼は鞍から軽やかに地面に下りた。全てを包み込むような微笑みでグレーテルを見下ろす。しかしそれもすぐに消え、その整った顔を曇らせた。

「あなたは………泣いているのですか?」

 言われて気がつけば、グレーテルの頬に涙の筋が光っていた。

「え……あ‥‥‥‥」

 グレーテルはケープの裾で慌てて目尻を抑えた。司祭は心配そうに彼女を覗き込む。

「苦しんでいるのですね……」

 司祭は後一歩グレーテルに近寄ると、その体を胸に抱いた。グレーテルは体を固くし、はっと小さく息を飲んだ。

「い、いけません……司祭様‥‥‥私は、大丈夫です……」

「ニコライと。せめて二人きりの時にはニコライと呼んで下さい………」

 彼の、グレーテルを抱く腕にさらに力がこもった。

「……ニコライ………」

 グレーテルは、彼の名前を呼んだ自分の声に、罪の響きを聞いた。

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第三話 胸騒ぎ

「あんたって、結構働き者なのね。契約もしないで人間のために働いていいの?」

 グレーテルは自分の脇に置いてある篭の中の、山になったサクランボを一つつまんで口に入れた。弾力のある果肉から甘酸っぱい果汁が口に広がる。

 今日は森の中でフロリアンとグレーテルは二人だけのサクランボ狩りを楽しんだ後だった。彼らの持って来たかご一杯の収穫に、グレーテルは上機嫌だった。これならコンポートもたくさん作れるし、パイも作れる。サクランボのコンポート、司祭様はお好きかしら………

 ニコライの腕の中でひとしきり涙を流すと、その涙で幼い頃の罪悪感が少し洗われた気がした。

 その後、散歩の途中だと言ってニコライがグレーテルを尋ねることが増えた。

 特に何をするでも無く、二人はバラ園の入り口で座って静かに語らい、ある時には小川まで足を伸ばし、煌めく水面をただ眺めた。

 その時間はグレーテルにとって至福でしかなかった。

 この恋心が蝶になって私の中から飛び、舞って、ニコライの肩に止まってくれたらいいのに……そして蝶の散らす甘い鱗粉を吸った彼も私を好きになってくれたら……

 そこまで考えて、また自分はなんて欲張りなのだろう、卑しいのだろうと、きつく瞼を閉じた。

「ま、オレたち勝負してる仲だから、いいだろ。こーいう地味な点数稼ぎが勝因につながるんだよ」

 グレーテルはフロリアンの声で現実に引き戻された。

「あ、悪魔なのに随分地味な手段ね。ねえ、フロー、ほんとに私があんたのこと好きって言うと思ってるの」

 ぷっ、とグレーテルは種を前に勢いよく飛ばす。

 そんな彼女をフロリアンは鼻で笑いながら、ちらと見る。

「オレ、無敵だから」

 ふうん。興味無さそうにグレーテルは彼の言葉を流した。悪魔でも、さすがにその態度にむっと来たフロリアンは自分もサクランボを口に入れ、その種を彼女に向かって飛ばした。

「ちょ! なにするのよ」

「おまえ、オレのこと甘く見てない? オレがどんなことが出来るか分かったら、おまえ今すぐにでもオレの足元にひれ伏すと思うんだけど」

 その言葉にぽかんとしていたグレーテルは、かたちの良い鼻を少し上に向けて高飛車に言う。

「へえ? 何が出来るの? 魔法を披露してくれるわけ?」

「そうだなぁ……あのさ、さっきから言おうと思ってたんだけど、おまえの背中に毛虫が付いているんだよ」

「えええ?!」

 グレーテルはそれを聞くと背筋をぴんと伸ばした。

「ど、どこ? と、とってよぉ!」

「おまえ、ペンダントしてる?」

「し、してるわよ! 早くしてよー」

 フロリアンに言われなければ全く気がつかなかったのに、言われたとたん、彼女はむずむずと体を動かし、すっかり落ち着きを失っている。

「ちょっと、ペンダントとって、篭にでも入れておいてくれない?」

 彼女はぶつぶついいながらも、頭を少し前に倒して手を首の後ろに回すと、その守護石を外した。

「あんだけ畑いじっているヤツが、毛虫怖いって変だな」

「毛虫だけなのよ、苦手なのは。クモとか青虫とかカエルとか全く平気なんだけど。ねえ、取れた?」

 フロリアンはうねうねと体をよじる毛虫をつまんで、放り投げた。それでも、この生意気なグレーテルをもう少し怖がらせようと服の上から背中に指を這わせた。

「うわ! ここにまだでかいのが付いてる」

 彼がわざとらしく大声を上げると、「きゃあ」とグレーテルは小さく跳ね、フロリアンの胸にしがみつく。

 予想外の彼女の反応に、フロリアンは一瞬戸惑った。グレーテルはいつまでもフロリアンが動く気配がないので、不思議に思い、顔を上げた。

「もー、ちゃんと取ってくれた………」

 彼女の言葉は、線の細いフロリアンの、それでも意外と逞しい胸に押し付けられ、消えた。気がつけば彼にしっかりと抱きしめられていた。

 どきどきと耳元で聞こえる心臓の鼓動は自分のものか、彼のものか。彼に心臓なんて無いはずだから、自分のものだろう……。ぼうっとした頭でそんなことを考えた。

 彼の熱を持った手が、グレーテルの背中をゆったりと上下に動いていた。

 その動きは決して不快ではなく、むしろ、眠気を誘うようなそれだった。グレーテルはしばらくフロリアンの胸の中に大人しく収まっていた。

 頬に当たっていた胸が大きく膨らんだ。

「もう、帰ろう」

 そう言ったのはフロリアンだった。

 立ち上がり、スカートをはたく。まともに彼の顔を見れず、下を向いたまま聞いた。

「い、今のも点数稼ぎ?」

「そんなとこかな……」

 彼は屈んでサクランボでいっぱいの二つの篭を取った。

 茜色に少し染まり始めた空の下を、家に向かう。夕食前の一仕事が待っている。

「そう言えば、あの司祭、最近よくウチに来るよな」

「ウチ、って私のウチでしょうが……一体どこで見てるの?」

 溜め息混じりにグレーテルは言った。

「うーん……地獄耳? 使いのヤツがなんかわざわざ教えてくれたり」

「手下がいるの? そんな人、見かけないけど」

「ヤモリとか、鼠とかだよ」

 いやぁ……と、グレーテルは顔をしかめた。

 そんな彼女を見下ろすフロリアンの顔に西日があたり、長い前髪の影を作る。それは彼の目に寂しさを落としたようにも見えた。

「まあ、おまえの気持ちが伝わるといいな」

「あれ、意外とやさしいのね、フローって」

 そうでもないよ、と悪魔は両手の篭を持ち直して大股で歩き出した。待って、とグレーテルは追いかける。

 だって、なあ。幸せいっぱいの二人が突然どちらかを失ったらグレーテルは、そして聖職者はどんな顔をするか。

 それを考えただけでも今から楽しくて仕方が無いもんな。

 幸せは大きければ大きい程、ぶち壊すオレにとっては好都合だ。

 日が沈めば簡単な夕食。

 大抵の献立は決まっていた。畑で取れたサラダとパン、近所から肉や魚が差し入れられれば、焼く。スープにパン、チーズ。ハーブ入りのオムレツ。そういうものが日がわりで食卓の上に並ぶ。

 フロリアンは人間のように食べる必要は無かったが、声をかけられれば一応、食事に付き合った。

「ねえ、普段悪魔って何してるの? 人間と契約して、腹黒い願を叶えるとかっていうのは定評だけど。あとは、死んだ人の魂狩り? サタンに献上するんでしょ」

「うわー、すごい偏った知識だな。まあ、外れては無いけど、オレはサタン様よりバアル・ゼブブ様のほうが近いな。おまえ、悪魔一般のこと聞きたいの? それともオレの個人的なこと?」

 悪魔にも個人的なものがあるのか、とグレーテルは宙に目を泳がせた。

「じゃあ、フローのこと」

「まあ、そうだな。おまえの言った通り、契約した上で人間のために働いていたし、あとはおまえが子供を産める体になるまで待ちながら、オレはオレでせっせと子種を他の女に植え付けてたし。おまえがオレの子孕んで魔法が解けたら、また他の母体を探しにいくけどな」

「えー! じゃあ、私がもし、万が一ね、もし、あんたの子供産んだら、女手一つで育てろってこと?! 無理よ!」

 グレーテルは向かいに座るフロリアンに噛み付かんばかりに身を乗り出した。

「いや? 子供産まれたら速攻取りにくるけど? 他の魔女、姉貴たちに育てさせるし」

「何それ?! 私の子供なのに?! そんなの嫌よ」

 その言葉にフロリアンは目を丸くする。

「なに? おまえこそ悪魔の子供なんて育てたいの? 普通、嫌がるけどな。捨てるヤツだって、殺すヤツだっているのに。自害する女もいるぜ」

「だって、悪魔と交わったら私だって魔女になるんでしょ?」

「あん? 何? そんなこと信じてるの? そんなの、教会が勝手に作った迷信迷信。一人歩きしてんのよ。あとは、まあ契約によるだろうな」

「そ、そうなの?」

 腑に落ちない顔でグレーテルはパンをちぎり、スープに浸した。

「悪魔が言ってんだから間違いねえよ。あ、でも三回以上悪魔とヤッたら魔女になるとかね」

「そんなのもあるの?!」

「嘘だよ」

 フロリアンは口の端を上げる。

「嘘つき」

「悪魔だから、いーんだよ」

 なにそれ、とグレーテルは笑った。

 なんっか、あいつ、怪しいんだよな。

 蝙蝠に姿を変えたフロリアンは、ぱたぱたと軽い羽音をたてながら街の教会を目指していた。

 司祭、ニコライがグレーテルを訪ねるごとにフロリアンが彼に抱く”嫌な感じ”は大きな”嫌悪”に育っていった。

 グレーテルに近づくのも気に喰わなかった。ニコライが近づけば近づく程、自分がこの勝負で不利になる。

 田舎司祭なんかに邪魔なんかさせるかよ。あいつはオレの子供を産むんだ。

 胸の中で呟きながら、街の屋根の中で一つ飛び出た教会の十字架を認めた。

 とんがり屋根に刺さっている仰々しい十字架。三日月の光を浴び、かろうじてその輪郭を浮き上がらせていた。

 フロリアンは、権力と言わんばかりに横に伸ばしている、ところどころ金の禿げた青銅の棒に逆さにぶら下がった。

 十字架など、彼にとってただのクロスされた棒だった。装飾品にもならない、役に立たない代物だった。

 下を見下ろすと、今まさに一人の村娘が教会に入って行くところだった。フロリアンは舞い降り、ロウソクを持った女の後ろをくるくると飛んだ。彼女は周りを伺いながら、怯えるように教会の裏口から入っていった。

 人間の姿に戻ったフロリアンはドアを通り抜けようと手を前に出した、とたん

「!!」

 また小さな痺れを感じ、手を引っ込めた。

 彼は顔をドアに近づけた。その黒い木のドアにはよく見ないとわからないくらいうっすらと、しかし完璧な魔法円が描かれていた。結界が張られていた。

 面倒くせえ……

 これくらいの結界なら解くのは何でも無いことだったが、張った相手に破ったことがバレる可能性もあった。それがどういう展開をもたらすかはフロリアンに予想し得なかった。

 ただ偵察に来ただけなんだけど。

 首を傾げて魔法円を見ていたフロリアンは、すっと手をその前に挙げると口の中で呪文を唱えた。

 ま、なんかあったら痛い目に遭うのは向こうだし。

 そんなことを思いながら、ドアを抜ける。

 教会の中はは真っ暗だった。祭壇の後ろにそびえているパイプオルガンもその忌々しい響きを奏でるでも無く、ステンドグラスを通して入り込む月明かりに冷たい輝きを反射していた。

 何かの合図のように地下室へ下りる階段の手すりの足元に、ロウソクの小さな炎が揺れていた。

 フロリアンは黒い霧となって地下室へ下りていった。

 地下室のドアを抜けると、小さな地下礼拝堂。左右二列に並んだ三人がけの椅子。洞窟を彷彿とさせる、岩肌のあらいドーム型の天井。嫌いではない、湿った空気。

 探す手間もなく、目的の人物は目の前にいた。

 祭壇の上に、いや、正確に言えば祭壇の上で何も身に付けていない女の上にいた。

 ロウソクの灯りに照らされ、絡み合う裸体は汗で光っていた。女の足はしっかりと聖職者の腰に巻き付いていた。

「全てを、私に委ねなさい………」

 切れ切れの息の間に落とされた声は、礼拝堂に低く響いた。

「あぁぁぁ………!! 司祭さま!」

 反り返った女の喉元から漏れた嬌声は、天井に跳ね返り、空気を妖しく震わせた。

「あなたは、全ての苦しみから……開放されます………」

 司祭は女の体を激しく貫きながら言った。

 こいつ、かなりヤバい………

 行為に没頭していたと思った司祭の視線が、ゆっくりと自分の方へ移った気がした。

 その刹那、霧であるフロリアンの目の前に炎が舞った。その激しい熱で目が焼かれるようだ。

 うわぁああ!

 不意を討たれたフロリアンは声にならない悲鳴を上げ、無我夢中で教会から飛び出した。

 グレーテルの家の前に枝を伸ばす樫の木の下。フロリアンは膝に頭を埋め、うずくまったまま動くことが出来なかった。

 夜露にマントが濡れるのも構わず、暫くそのままでいた。

 虫が羽を震わせる音が彼を慰めているかのように聞こえた。

 あいつは、オレが居たことを知っていた。

 あの時の不意打ちなら、もっと強い攻撃でオレを散らすことさえ出来たはずだ。

 宣戦布告。

 あぁ、そうか、あいつは………

 フロリアンは燃えるように痛む目を抑えながら、記憶の黒い霧の中から一人の聖人の名前をたぐり寄せた。かつては天使として呼ばれていたその名前を。

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第四話 勝者

 夕食を済ませた後グレーテルはフロリアンを追い出すと、まだ火がくすぶる暖炉の前で刺繍の仕上げをしながら、夜が深く、闇が濃くなるのを待った。

 教会の鐘が微かに聞えた。八回鳴るのを息を潜めて数えると、出かける支度をした。マントを羽織り、フードを深く被った。

 馬に鞍を置いてその背に股がる。ふとフロリアンの”魔法の家”を見ると、真っ暗だった。どこかに行っているのかもしれないし、悪魔に灯りは必要がないのかもしれない。

 教会に向かう道すがら、グレーテルはあともう数日もすれば終えるだろうフロリアンとの生活を振り返っていた。

 思えば、一人の男と数週間も共に過ごしたのは初めてだった。

 大体、婚姻前に結婚の約束もしない男女が人目も憚らず、毎日顔を合わせるなんてあり得ないことだった。

 グレーテルは、この家を買う前に結婚を約束した男と付き合っていた。優しい男だった。だが結婚直前に、彼の目的は自分ではなく自分の財産だったことが分かり、別れた。ヘンゼルは”よくある話だろ”と鼻で笑ったが、やっぱり、自分を好きでいてくれる人と一緒になりたかった。

 これも、魔女の呪いかしら。あの財産は全て魔女のものだったものね……

 自嘲するように鼻で笑う。

 馬の鞍に付けたランタンの灯りが揺れると、影も揺れ、周りの木が大きくなったり小さくなったりするのだった。

 フロー……もう少し時間があったら、好きになっちゃったかもしれない。……私、変だ。悪魔なんかに……

 フロリアンは自分の秘密を全て知っていた。隠すことが無い分、自分でも驚く程素直に彼にいろいろなことが話せた。彼は自分の話にちゃんと耳を傾けてくれた。悪魔だからたまに彼なりのとんでもない理論で会話が進むことがあったが、それはそれで楽しかった。

 そして、悪魔特有の、人の心を惑わす誘惑だろうか。彼に抱きしめられた時……グレーテルの記憶に彼の体の熱が甦った。再び、心臓が早鐘を打った。

 つ、つい動揺しちゃったのよ。あんなこと、久しぶりだったから………

 それからニコライの顔が浮かんだ。

「私はあなたの力になりたいのです。明日の晩、教会に来て下さい。共に神に祈りましょう。きっと苦しみから開放されるでしょう」

 そうニコライに言われたのが、昨日の昼。街へ買い物へ行ったついでに、サクランボのコンポートを届けに教会へ寄った。その時に彼が低い声でグレーテルの耳元で囁いたのだった。

 その言葉を聞いたとき、グレーテルは自分が本当に罪を犯した人間の烙印を押されたような気がした。そこにはフロリアンという悪魔も付随して。

 馬を教会の裏庭に繋ぐと、正面の重いドアを押して中に入る。中は真っ暗だったが、目の前の祭壇だけはいくつかのロウソクが灯され、ぼうっと浮かび上がっていた。説教壇の脇に、普段ミサでしか身につけることの無い、白い衣装を着たニコライの姿を認めた。堂々として、立派だった。

 教会の、神々しい静寂に押し潰されそうで、心細くなっていたグレーテルは彼の姿を見つけるとほっとして近づいた。

「グレーテル……」

 ニコライも彼女に歩み寄り、両手でその手をそっと包んだ。薄暗がりの中、ニコライの顔は青白く浮かんでいた。

「ニコライ……」

 彼女は俯く。ニコライにそうされると、恥ずかしさで彼の顔を見れない。

「顔を見せください、グレーテル。何も心配することはないのですよ」

 手だけではなく、その声の響きにも体が包まれる気がした。グレーテルは顔を上げる。そして、彼の、慈しむような眼差しと出会った。頬が薔薇磯に染まる。それは頼りないロウソクの明かりにも十分わかった。体が、小さく震えた。

 グレーテルはゆっくりとニコライの前に跪いた。彼は祭壇の上の聖盂(せいう)、足の付いた円盤状の皿から薄いパンの欠片を取り、軽く開けたグレーテルの口の中に入れた。それから聖爵(せいしゃく)を彼女に与え、葡萄酒を、神の血を飲ませた。

「さあ、共に祈りましょう」

 ニコライはグレーテルの上に軽く手をかざし、祈り始めた。

 グレーテルも両手を胸の前でしっかりと組んで、瞼を閉じ、祈った。母を見殺しにした、卑しい自分をお許しください……

 そのうち、体から急に力が抜けていく感じを覚えた。思わず床に両手をついた。脂汗が額に浮かんだ。

 意識はしっかりとあるのに、手足が言うことを聞かない。

 ニコライも膝を折り、彼女の方を抱いて顔を覗き込む。

「どうしたことでしょう、グレーテル……あなたは、悪魔に取り憑かれています!」

 その言葉を聞いたグレーテルは目の前が真っ暗になった。

 悪魔って………

「大丈夫ですよ、グレーテル。私に全てを委ねなさい………私を信じることが出来ずに、どうして神を信じることができましょう」

 彼は自由の利かないグレーテルの体を抱き上げると、ニコライは地下室へ体の向きを変えた。グレーテルには見ることが出来なかったが、その瞳には聖職者に似つかわしくない光が浮かんでいた。

 何だこれ!!

 グレーテルの後を追って来たフロリアンは教会の敷地に降り立ったとたん、強い目眩を感じた。結界が、強い。これだけの強い結界の中に自分が入れたことが不思議なくらいだった。そんなこと考えている猶予はない。前回より手こずったが、彼は結界を破り呪文を唱えた。彼が瞼を開けると、そこはすでに地下礼拝堂だった。

 祭壇の上に、グレーテルが横たわっている。スカートははだけ、すっかり足がむき出しになっていた。聖職者はグレーテルの開いた胸元から顔を上げると、闖入者を見て微笑んだ。

「君の出る幕じゃないよ、さっさと地獄に戻った方が身のためだと思いますけど?」

 グレーテルはニコライが話しかけた相手の方へ顔を向けた。

「フロリアン!」

「グレーテル、そんなところで寝てるんじゃねーよ。こっちに来い」

 フロリアンは前に手を伸ばした。グレーテルはなんとか起き上がろうとしているようだったが、持ち上がるのは頭ばかりだった。

「てめぇ、グレーテルに何をした?!」

 ふふ、とニコライは口角に笑みを乗せる。

「神の血を飲みましたが……彼女は自分の罪によって縛り付けられているだけです。眠り薬ではありませんよ。眠ってしまうと私の楽しみが半減してしまいますからね」

 ニコライはグレーテルの胸の上にそっと手を添えた。

「グレーテル、しっかりと見なさい。あなたはあの悪魔に騙されているだけなのです。あなたの罪の意識が彼を呼び出したのです」

「戯れ言言ってるんじゃねーよ。堕天使。おまえウリエルだな? 堕天使の烙印を押された」

「ふふ、言ってくれるね。私は”天使”から人間になり”聖人”という立派な役目を貰ったまでだ。私はこの仕事を楽しんでいるし、誇りも持っているがね」

「夜な夜な女をとっかえひっかえ楽しめる特権をか。まぁ、おまえがどこで誰に何をしようが関係ない。関係あるのはグレーテルだけだ。そいつの前から今すぐ姿を消せ」

「彼女たちは私への思いに苦しんでいるんだ。苦しみから人びとを開放するのが私の役目だからね………それにどうやらグレーテルの中には追い払わなくてはいけない黒い影が巣食っているようだ。少し突いて毒を出すだけだ。随分、楽になると思うよ。そう……悪魔が人間に想いを寄せるのは珍しいことではないが、残念ながら他をあたるんだね」

 ニコライは少し唇を尖らせ、ふっと息を吹いた。

 その瞬間、フロリアンの体は後ろに飛び、壁に強く叩き付けられた。天井から土埃が落ちた。

「……ってえ、やってくれるじゃねえか」

 ゆらりと彼は身を起こすと、短い言葉を発して、手を前に払った。

 ニコライは素早くよけたが、彼の一房の髪が、グレーテルの乱れた服の胸元に落ちた。

「ニコライ……やめて………止めて下さい!」

 グレーテルは必死に懇願した。フロリアンが傷つくのを見るのを耐えられなかった。

「グレーテル、あなたはまだ惑わされているのです」

 彼女は自分の言葉を受け付けない、ニコライの氷のような冷たい視線に愕然として、今度はフロリアンに訴えの声を張った。

「フロリアン、行って頂戴! そしてもう二度と戻って来ないで!」

「ばーか、おまえとの勝負もついてないのに行けるわけないだろ。それに、売られた喧嘩を買わない礼儀は無いんだよ。ていうか、ただ目障りなだけだけどな。ウルサいからおまえ、消えてろ」

 そう言うとフロリアンは呪文を唱え、グレーテルに向かって手の平を向けた。その瞬間、グレーテルは祭壇の上から消えた。

 刹那、祭壇の方に伸ばしていたフロリアンの手が、スパンと手首からあっけなく離れた。鋭い刃物ですぱっと枝を飛ばしたように。

 その傷口から鮮血が吹き出ることはなく、濃い紫色の体液がしずくとなり何滴か流れただけだった。

「さっきから不意打ちばかり、卑怯なヤツだな、おまえも」

「悪魔を退治するのに卑怯も何も無いだろう」

 フロリアンは満足な方の手を突き出し、術を放った。腕を前でクロスして、ニコライは咄嗟に身を庇ったが、司祭服は裂け、裂けた部分から勢い良く血が吹き出た。ニコライも負けじと間髪を入れずに両手を振り上げる。

 竜巻がフロリアンを襲い、その渦は中心に向かって強く体を締め付けた。風は鋭く、悪魔の肌を斬りつけた。フロリアンがその風を散らした後には、二本の足で直立するラクダの体をした悪魔が姿を現した。体の所々から体液が流れていた。

「あー、君は確か………ウアル、って言ったっけ。ラクダのウアル」

「おまえに呼ばれたくねえよ。早いとこ、死ね。オレが地獄に付き添って………」

 言い終わらないうちに、悪魔の体がみしみしと音を立てる。

 ぐあぁぁぁあ

 今にも体がバラバラになりそうだった。

 ニコライは薄ら笑いを浮かべながら術を唱えていた。

 勝負は一瞬で決まる……次の一撃で決まる、決めないと………

 ウアルは最後の力を最大まで集め、解き放った。

 その渾身の一撃にニコライは反撃する間もなく、天井近くまで吹き飛ばされ、体は鈍い音を立てて床に叩き付けられた。天井は崩れ、その体の上に石の塊がバラバラと降り掛かった。ぴくりともせず、ニコライが立ち上がる気配はもはやなかった。

 フロリアンの体力も限界だった。

 グレーテルは無事だろうか………ただ彼女のことをひたすら思いながら、彼は口の中で呪文を唱え始めた。

  この呪文は無駄に長いんだよ……

 途中、立っていられなくなり膝が折れた。それでも最後まで呪文を唱えると、ぐらりと体が前にのめり、そのまま石の床の上に崩れた。

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第五話 解呪

 飛ばされたグレーテルは、咄嗟のことで一瞬自分がどこに居るのかわからなかった。

 薄暗い部屋の中をよく見てみると、自分が座っているのはヘンゼルの家の居間で、兄嫁自慢の、異国から取り寄せた絨毯の上だとわかった。グレーテルは乱れた胸元を直し階段を駆け上がり、兄夫婦の寝室へ飛び込んだ。深夜の突然の妹の訪問にびっくりして飛び起きたヘンゼルだったが、小さい頃勇敢な妹に命を助けてもらった恩はまだ健全に彼の中に存在していた。

 ヘンゼルは理由も聞かずに妹の頼み通り、使用人一人を貸した。

 教会に戻ったグレーテルは、体つきは立派なくせに怯えて尻込みする若い使用人を急き立て、地下へ下りて行った。

 祭壇の前に、二つの体がうつ伏せに倒れていた。

 一人はニコライだとすぐに分かった。しかし、少し離れて反対側に倒れている、人間よりやや大きめの生き物がフロリアンだと気がつくのに少し時間がかかった。体中がつぶれた桑の実の汁のような紫色に染まり、傷だらけの人型の名残のあるラクダ。背には一対の蝙蝠の羽が不自然なかたちで広がっていた。折れているのだろう。

 グレーテルはラクダに駆け寄ると、手をその鼻の下に持って行った。

 呼吸はしていない。………死んでる?

 グレーテルは一瞬頭の中が真っ白になった。

 取り返しのつかないことになった。

 ふらふらと力なく彼女は立ち上がり、ニコライの側に屈み込み脈をとった。弱かったが、指先に波を感じた。純白の司祭服はその面積のほとんどが赤黒く染まっていて、ぼろぼろだったが、彼はまだ生きていた。

「司祭様は、そこに倒れている悪魔と闘われたのよ」

 グレーテルは岩壁に張り付いている使用人に言った。

 礼拝堂のなかで嘘をついた。でも、罪悪感はまったく無かった。

 フロリアンは私を守るために闘ったのよ。

 本当はそう言いたかった。

「おまえ、その悪魔を担いで馬に乗せて頂戴。私が森に捨てに行くわ。事切れているからそんなに怖がらなくても大丈夫よ。おまえは残って、司祭様をお願いね。このことは口外しないで。もし、誰かに話したら、この悪魔の仲間がおまえを切り裂きに来るかもしれないわよ」

 これくらい脅かしておけば、この気の弱い男が誰かに話すことはあるまい。

 悪魔を乗せた馬を引き、闇の中を家まで歩いた。

 それから、その見たことも無い血だらけの動物の体を、苦労して家の中へ引きずって行った。

 寝室の床に寝かせたまま、濡らした布でこびりついた紫の体液を綺麗に拭いた。体中汚れていたのにも関わらず、傷は思ったよりも浅かった。

 フロリアンって、本当に悪魔だったんだ………

 額の真ん中に角を生やしたラクダ。左の手首から下が無い。綺麗にすっぱりと切られた切り口から骨が見え、表面が黒くなった肉が包んでいた。

 彼女はフロリアンだったラクダの体を床の上に横たえたまま、毛布をかけた。

 埋葬は、明日してあげよう。

「あなたのこと、好きだったの。あんたがこんな風になっちゃうまで、自分でも気がつかなかったけど……本当よ」

 グレーテルは冷たいラクダの顔をそっと撫でた。

 眠れると思わなかったが、取りあえず同じ部屋のベッドに横になった。ロウソクの明かりを落とし、月明かりにラクダの輪郭が浮くのを見る。暫くそれを見ていたが、瞼が重くなって行くのにまかせ、瞳を閉じた。

 次の日、目を覚ませば既に日は高かった。

 グレーテルが目を覚ますと最初に目に入ったのは、窓から射込む太陽の光に縁取られた目の前の死体だった。

 起きたばかりの目に眩しい。彼女はベッドで体を起こして目を凝らしてみた。

「?!」

 グレーテルは死体に近寄った。

「フロリアン………」

 死体は人間のかたちに、グレーテルの良く知っているフロリアンに姿を変えていた。

 そ……蘇生して……る?

 蘇生はしているけど、どうしたら覚醒するの?

 毛布から覗く肩に、ラクダのごわごわした堅い毛はもう生えていなかった。つるりとしたその肩をグレーテルは掴んで揺らした。

「フロー? フロー? 生きてるの? ねえ?!」

 頭はぐらぐら揺れ、彼の艶やかな黒髪は顔に降り掛かった。

「起きてよ、ねぇ、フロー。あんたのこと好きだって言ったら起きる? それなら何遍でも言うわ。ねえ、フロー、私、あんたのこと好きよ……だから……」

 もう一度………

 フロリアンは目を閉じたままだった。まつげの一本も動かさなかった。グレーテルは彼の体の上にうずくまり、涙を流した。自分に取って何が大切なのか、失って初めて分かった。

 覚醒、覚醒………

 手の甲で涙を拭いながら、取りあえずフロリアンの目を覚ますことを考えた。

「ヤモリを煎じて飲ませればいいのかしら……それとも千年杉の枝で体を叩くとか……」

 床に横たわる彼の隣でぶつぶつと独り言を言って見たが、やはり答えは帰って来なかった。

 グレーテルは悪魔の覚醒のヒントは何か無いかと家を飛び出し、庭を、畑を歩き回った。何をどうしていいか分からないから、歩き回っていたとも言えた。取りあえず、本当にヤモリを捕まえ、頭を潰して釜戸の火で炙ってみた。それを鉄鍋に煎じてコップに注いだ。なんとも言えぬ臭いが家中に漂った。こんなものを彼に飲ませていいものかどうか迷ったが、悪魔なら大丈夫だろうと、自分を納得させた。

 横たわっていた彼の体を仰向けにし、口をこじ開けると少し冷めたその液体を流し込む。それは彼の口の端から流れ、耳を濡らした。

 グレーテルの期待していたことは何も起こらなかった。彼女は途方に暮れて彼の脇にぺたんと座ったまま、彼の真っすぐな鼻筋のあたりにじっと視線を落としていた。

 眠っていても綺麗な顔をしているのね。

 もしかして、このままずっと寝かせておいた方がいいかもしれない。もし、ニコライが彼が覚醒したことを知ったらどうするだろうか。今度こそ息の根を止めに来るだろうか。

 いや、それよりも……きっと、フロリアンは覚醒したとたん、もともと彼の居るべき場所に戻っていくだろう。自分を庇ってくれたために、死にかけたのだ。

 思えば昨日で約束の三週間が過ぎていた。私は彼との勝負に勝ったし、負けた悪魔がここに留まる理由は無い。

 グレーテルに取って、今となってはそんなことはどうでも良かったのだが。

 でも、もし眠ったままでいればずっと一緒に居られる。そして、いつか何かのきっかけで起きるかもしれない。そしたら……いやだ、私、何考えているんだろう。悪魔相手にこんなに本気になってしまうなんて。

 グレーテルは彼をこんな目に遭わせた自分を責めても何もならないことは頭では分かっていた。しかし、彼女の、彼に対しての恋心はやるせない気持ちで張り裂けそうだった。グレーテルは彼の胸に手をつき、身を屈めると彼の唇に自分のそれを重ねた。

 ごめんね。

 すう、と暖かい風が自分の鼻の上をくすぐった。そして、いきなり唇が吸われた。

「うン?!!」

 びっくりして目を開けると、黒く濡れた瞳と出会った。

 グレーテルは思い切り身を起こすと、目を大きく見開いたまま固まってしまった。そして、仰向けに寝ながら自分に流し目を送っているフロリアンを言葉も無く眺めた。

「あぁ……おまえ、遅いよ。死人にキスしたら起きるっていうの、もう定番だろうが。なんで真っ先にしないかなー。不味いヤモリの湯なんて飲ませやがって。おまけに次は千年杉だろ?」

 フロリアンはむくりと上体を起こして、こきこきと首を回した。

「どどどどうして?!」

「体が本当に動かなくなる前に、仮死の呪文唱えた。体力が限界の時に、極力体のエネルギー消費をストップして治癒に集中させるのに一番いい呪文。目覚めのアイテムは”想い人のキス”ってことで。おまえ、スノーホワイトの噂、聞いたことが無い? オレの姉貴が彼女に術かけたんだけどさ。彼女も王子のキスで目覚めたんだぜ。まあ、他にも”手を三回叩く”とかあるけどね」

「し、知らない……」

「ま、どうでもいいけど。そんなこと」

 彼は両腕を伸ばしてグレーテルを抱き寄せる。

「そ、それよりも何か着てよ! 魔法でぱぱっと出して! あ、それか私のマントが……」

 何も着ていないフロリアンの上半身に、グレーテルは慌てた。

「なにそれ。裸体にマントなんて、変質者じゃねーんだから。固いこと言うな。今から子供作るのに」

「い、今からって……子供って……」

 ばたばたとグレーテルはフロリアンの腕の中で暴れた。彼は暴れるグレーテルをより強く抱きしめ、ゆっくりとその体を押し倒す。

「フロー……」

「もう一度言えよ」

「オレのこと好きだって、もう一度言え」

「ええ?!!」

 フロリアンは彼女の顔の上でにやりと笑う。上等な悪魔の微笑みだ。

「しっかり聞いてたから。ちなみにおまえの負けね」

「聞いていたならいいじゃない!」

「だめ」

 フロリアンはグレーテルの首に軽く歯を立てた。

「ふぁ……っ、す、好き。フローが好き……」

 それは震えていたが、しっとりと柔らかな声でグレーテルはフロリアンの欲する言葉を漏らした。フロリアンは満足げに彼女を正面から見つめた。その顔は火がついたように真っ赤だった。恥ずかしさで視線を泳がせながらも彼女は口を開く。

「あ……ねえ、ニコライはまだ生きてるから、仕返しに来るんじゃない?」

「え? あー、平気平気。力の差を見せつけてやったから。やっつければこっちの勝ち。そう言う決まりなの。だからもうオレの領域に、おまえには手を出して来ない」

「私には? じゃあ他の人たちには?」

「知らねーよ。随分楽しんでたようだから、当分止めないんじゃねえ?」

「何それ! どうにかしてよ!」

「あのさぁ、オレ、おまえ以外に興味ないもん。他のヤツのことなんか知るか。慈善事業しているわけじゃないんだぜ?」

「あ」

「まだ何かあるの?」

 自分の思うように先に進めないもどかしさで、思い切り嫌な顔をしてみせるフロリアン。

「私が……あんたの子供を孕んだら、また他の女の人のところに、行っちゃうの……?」

 心配そうな顔でグレーテルは彼を見上げている。その瞳はかすかに湿りを帯びていた。フロリアンは体の内がかっと熱くなるのを感じた。それでもそんな素振りは顔に出さずに、傲慢に振る舞う。

「ばーか。おまえが負けたんだから、おまえはオレのものなんだよ。オレはずっとおまえの側を離れない」

 悪魔に取り憑かれるなど、常識で考えれば不名誉この上ないことだったが、この時のグレーテルの心は悦びで打ち震えた。そしてフロリアンが自分の頬を優しく撫でる手つきにうっとりと酔う。

「あ! そ、そういえば、て、手が! 手が生えてる!!!」

 身を起こしそうになるグレーテルを再び床に張り付けて、フロリアンは彼女の首筋に顔を埋めた。

「だって、この体は作り物だからなぁ………朝飯前だぞ」

「やっぱり悪魔だー!」

「だから最初からそう言ってるじゃん」

 悪魔のオレを惑わすなんて、そっちもかなりのもんだけど。

「え? 何? なんて言ったの?」

「もう、ウルサいよ、おまえ……」

「んっ……」

 フロリアンは彼女の唇にそっと噛み付き、そして重ねる。

 グレーテル……

 彼は温かく湿ったグレーテルの口の中に、彼女の名前を滑り込ませた。

 * *

 こうして悪魔はグレーテルを負かし、母親を殺された復讐を遂げたのでした。

 いつの世でも悪魔とは人のすぐ隣で息を潜めて隙をうかがっているもの。巧みに甘い言葉で誘い、弱き心を惑わします。そんな悪魔の言葉に耳をかしてはいけませんよ。

 これはそんなお話のひとつ。

 【完】

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